[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.067 たった一つの愛してる

 

逃げても独り

追いかけても独り

惨めで儚くてまるで小鳥

 

弦葬曲 / 鬼束ちひろ

 

 

 この一か月の間活動的であった反動だろうか、急加速する抑うつ状態に襲われている。何もかもが無意味であって、その無意味に皆が群がり地に落ちていく。芥川の「蜘蛛の糸」を彷彿とさせる脳内で繰り広げられるそんなイメージこそが、まさに無意味。降り注ぐ多情な雨、対する悲哀的な虚無が不規則な倦怠感をわたしの中に創造する。苦しいと嘆く訳ではない、涙を流す訳ではない。誰かに気づいてほしいと願っている訳ではない。そんな訳がない。それでも、晴天の中歩みを進めることは難しい。

 

 明るくて元気になれる文章なんて書きたくない。誰かを笑顔にしたいなんて思わない。辛い時にそっと寄り添えるような、そんな一文を認めたい。その為には、たくさんの悲劇を学ぶ必要がある。日常に絶望を見出す必要がある。そうやって、私はわたし自身に罰を下しているのだろうか。断定的な憂鬱や希死念慮、あらゆる類の感情を自己創造しているのか。何のために?それはきっと自分自身の為に。ただの”真っ直ぐな正常”では、理想的な文章を書くことが出来ない。自分は絶望を必要としている。きっと鬱もその中の一つであって、そんな馬鹿げた理想郷の為に、苦しみに依存しているんだと思う。

 

 必要としているのならば、せっかく獲得したその苦しみを野放しにしておくのは勿体ない。ただ意味もなく苦しみに浸る、身を任せるだけ、なんてそれこそ本末転倒だ。自分自身を観察した結果、最近はそのように考えることが出来るようになった。

 

 例えば、「死にたい」という感情が生まれる。その不安感や虚無をただ無為に嘆くことは簡単だ。しかし、それでは何一つ現状は変わらない。わたし達が思い抱く全ての感情は、時として物凄い力を備えた原動力となる。”死にたい”と感じている時にしか作ることが出来ない作品がある。”死にたい”と思った過去があるからこそ、他人に優しくなれる。”死にたい”と思って実際に死んでしまう人間もいれば、”死ななかった”を生み出し続ける人間もいる。例え、それがどんな感情であっても、現在抱えている感情を未来へと繋げることは可能だ。ポジティブだったりネガティブだったりといった言葉で感情を一括りにするなんて、あまりにも馬鹿げていることだとわたしは思う。

 

 活力に満たされている時がプラスで、死にたいと感じている時がマイナスな訳ではない。何でもかんでも数値化する必要はない。健常者がプラスで、精神疾患者がマイナスな訳ではない。そもそも、世の中には健常者なんて存在しない。皆それぞれ異質な存在であって、即ちそれが個性として機能する。「自分だけ」なんて落ち込まなくてもいい、それは立派な個性なんだから。自分は不幸だからといって悲しまなくていい。”幸せにならなければ”なんてことは無い。不幸は不幸のままで、今のままでもいい。不幸を受け入れた時に初めて、幸福は姿を現したりする。

 

 君は君のままで、そのままでいい。他の誰かになろうとしなくていい、君は君以外の何者にもなることなど出来ないのだから。

 

 そうだ、わたしは私のままでいい。その瞬間にしか出来ないことがある。そのことを知っているからこそ、私はわたしの全てを愛している。

 

 

愛こそが この世のすべてだ。