[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.084 木陰を包む陽光のように

 

僕が死のうと思ったのは

あなたが綺麗に笑うから

 

死ぬことばかり考えてしまうのは

きっと生きることに真面目すぎるから

 

僕が死のうと思ったのは / amazarashi

 

 最近つくづく思うのは、明るく死にたいと言える人間になりたいということ。

 

 少し前まではただ世の中を恨んでいて利己的で、何もかもが終わってしまえばいいと思っていました。ただ毎日が楽しくない、痛み苦しみ悲しみにドップリと浸かりきった日々がとても憎らしくて、早くこの生が終わってしまえばいいと、そうするにはどうすればいいのだろうかとずっと考えていた。

 

 ただ、そういうことを考えるのにも少々飽きてしまったというか。いくら自分が戯言を言ったところで行動に移さなければ現実は何ひとつ変わらないし、終了を開始する勇気もない自分自身が情けなく思えてきた。”死にたい”を意味もなく垂れ流している人間に魅力は存在しているんだろうか。そんな人間に魅かれるとすれば、同じく進行形で絶望を抱えている人間なのだろう。理由は何にせよ、魅かれ合うということは素晴らしいことだ。けれども、互いが”死にたい”を連呼する関係性なんてものは醜い蛙の合唱であって、そこから何も産出されることはない。そんなものは居酒屋で愚痴ばかり吐いている馬鹿共の飲み会と何ら変わりはない。

 

 この人よりもわたしの方が苦しい、この人に比べれば幾らか私は恵まれているのかもしれない、そんな不幸比べは止めてしまおう。自分の苦しみは自分の中で責任を持って飼いならしていく。それを無計画に世へ垂れ流してはいけない。

 私は「NARUTO」という少年漫画が大好きなのだけれど、主人公のうずまきナルトは自身に封印された九尾の妖狐のせいで長年里の民から迫害されてきた。それでも生きることを諦めなかったナルトは、最終的に九尾と和解し、人間の範疇を超えた大きな力を手に入れた。そして、その大きな盾で里を守り抜いた。

 どれほどに恐ろしい狂犬も、友となった時には心強い味方になる。自分にとっての大きな力となる。味方になるまで果てが見えない程に大変だけれど、その力はあなたを守る頑強な盾となってくれる。

 

 要はいかなる感情であれ、使い方次第では自分を、そして他人を守ることが出来る。その逆も然り、自他共に破壊することだって出来てしまう。明るく煌びやかな感情を心が沈んでいる相手に幾度と投げかければその人は壊れてしまうだろうし、ドス黒い恨みつらみのシャワーを浴び続ければその黒さが膨張して次第に当人を飲み込んでしまうだろう。

 そうではなく、私はその経験を生かすことによって救われるのだと思う。”死にたい”なら、どうして自分はそう思うのかを考える。自分と向き合う時間を大きく確保する。その為なら仕事なんて休んだって構わない、何なら辞めてしまってもいい。

 

 いくら向き合ったとしても、自分の中でその感情は消化されないかもしれない。実際にわたしは全く持って希死念慮を拭い去ることが出来ていない。それでもいい、寧ろ自分の中から消し去る必要は無いと考える。その感情があってこその自分というか、一種のアイデンティティというか、それ故に自分の世界観だったり、人間的な魅力だったりというのが必ず何処かで確立されていると思うから。希死念慮を無くす為に自殺します、眠気を無くす為に眠り続けます、怒りを無くす為に四六時中怒り続けます、感情を消し去ろうとすることは即ちそういうこと。そもそもが無謀だったんだ。そこに在る感情を理屈で丸め込もうとするから、心が悲鳴を上げてしまう。そこにある感情はそのままでいい、静かに見守ってやればいい。長い時間がかかるかもしれないけれど、その感情と少しだけ分かち合える瞬間が訪れるかもしれないから。

 

 常日頃”死にたい”と思っている人間は、同じく”死にたい”と思っている人間の気持ちを理解することが出来る。完全な理解は難しくとも、自身の尺度を通して共感を示すことが出来る。生きていると、話しを聞いてほしいと言われることがある。そういう時に、微笑を浮かべながら耳を傾けられる人間に、僕はなりたいと思っています。