[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0106 眼前に迫りくる、地

 

 強迫性障害になってから、外を歩くときは地面を気にしながら歩くようになった。

 

 恐らく切っ掛けは犬の糞を踏んだこと。小学生の頃に一度、成人してから一度、過去に二度犬の糞を踏んだことがある。小学生の頃は不明だが、成人後に糞との邂逅を果たした時には、歩きスマホをしていて極端に視野が狭くなっていたことが原因だ。情けない。

 勿論、その日から歩きスマホを断じて禁じた。歩く時は歩くことにだけ集中するべきだろう。

 

 当時はまだ強迫症状もなく、綺麗とか不潔とかに対してそこまで拘りが無かった為、靴は洗って何事もなかったかのようにその後も履き続けた。現在の自分から考えると、なんて恐ろしいことを...と思ってしまう。例えばいま糞を踏んだとしたら、靴は即刻捨ててしまうだろう。それほどまでに糞が恐ろしいと感じている。

 

 たかが犬の糞で、と思われる方もいるかもしれない。自分自身でも少し思う節はある、それでも加速する不安思考を止められない。言葉を選ばずに表せば「糞ボケが」となる。そもそも糞を放置する飼い主がいるから、こうやって苦しむことになる。お前達がきちんと後始末をしていれば、私は不安に縛られず踊るような心持ちでステップを踏めるのに。その点においては純粋に腹立たしい。

 

 気が付けば、歩くときは俯きがちになっていた。茶色っぽいシミみたいなものは全て犬の糞として変換されてしまうし、車が通った後に垂れ流されるガソリンにも嫌気が差す。得体の知れない謎の水分にも辟易する。踏んでしまうとベタベタするんじゃないか、臭いが付着して取れないんじゃないか、その靴を靴箱へ入れた時には靴箱全体に臭いが広まり使用不可能になってしまうんじゃないか、とかとか。とにかく不安が拡大解釈されてしまう。客観的には理解しているつもり、それでもぶっ壊れた脳味噌はその勢いを緩めない。

 

 普段あまり着目したことがない方は試しに意識を向けてみてほしいんだけど、地面には本当に色々なモノが落ちている。犬の糞然り、空き缶ペットボトル、レジ袋、動物の死骸、靴、たまに人間。繁華街に行けば吐瀉物、今の時期だと地を駆け回るゴキブリも結構見かける。

 

 我らが敬愛する歌手の宇多田ヒカルさんは、在住のロンドンで見つけた様々な落し物をインスタグラムにアップロードしている。そういう発想がとても斬新だし、車のホイールや便器なんかが落ちていたりすることもあって、見ていて飽きない。自分も見習ってアップしてみようかと思ったけど、ただのグロ画像集になってしまう気配があるので、踏み止まっておく。

 

 待ち行く他人を眺めていたり、友人と歩いていたりして気付くことがある。私たちは知らず知らずのうちに落ちているものを踏みつけている。「あっ、踏んだ!」と思うことがよくある。そして、本人は踏んだことに気づかないでいる、というより気にしていないだけなのかもしれない。干からびて地面にシミついているタイプの犬の糞、その程度なら踏んでも誰も気にしていない。

 

 その心持ちがとても羨ましいなと思う。

 そこからは”自由”の風を感じる。

 

 自分もそうなりたいと思う、気にならない人間になりたい。いくらそう願ったところで、現実はいつだって残酷だ、意識すればするほどにめちゃくちゃ気になる。

 

 もうこれは心の風向きがずっと地面を指している、それだけのこと。気になることは仕方が無いし、現在の自分自身をありのまま受け容れてあげよう。それも一つの要素となり、個性が彩られる。良い風に解釈し過ぎかしら?。

 

 個人的に、俯きながら歩いている人からは魅力を感じない。だからこそ、自分は視線を前方に合わせ、姿勢を正しながら歩きたい。地面がとても気になるけれど、気になっている状態のまま前を見て歩く練習をしている。

 前を視る、足を踏み出す、不安に敗北して地面に視線が向く。自分を鼓舞して再び前を視る、どうにでもなれと闊歩する、より大きな不安に煽られ私は惨敗する。そして、地面を眺めることになる。

 

 どうにも上手くいかないものですね、困ってしまう。まぁ、焦っても仕方がないから、懲りずに今後も練習していきます。

 

 自分が落とした大切なものを見つける為に、

 今日も下を向き探し続けるのかもしれない。