[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0119 no pain no life.

 

 生きていることを実感する為に、痛みを求めている。物理的な痛みというよりも、概念としての痛みを、目には見えない心の痛みが欲しい。

 

 僕たちは、生きているだけでたくさん傷つく。躓いて転ぶこともあるだろうし、突然、すれ違いざまに切りつけられることもある。しかも、当の本人は切りつけたことを悪びれていない、というか気付いてもいない。「もっとわたしをよく見て、こんなにも血が吹き出てているのに。出血多量で死んじゃうよ、わたし。」なんてことを相手へ投げかけると「被害者振るな!」と罵声を浴びる。傷ついた事実を黙認しようとすると、やるせなさだけが心に根を張る。そのようにして僕たちの心は鍛えられ、頑強になっていく?。

 

 そんな訳はない。

 

 ただ、疲弊していくばかりの毎日に失望する。自分にも相手にも世の中にも、目に映るすべてのものが虚しさを帯びる。決して自分が強くなったんじゃない、ただ以前よりも諦めることが上達しただけ。心に傷がつくと、痛みを感じる。その痛みから様々な情緒が派生する。基本的には、哀しみ、苦しみ、憎しみ、怒り、といったネガティブ感情が活発になるけれど、その中で少しずつ”楽しさ”が顔を表すようになった。痛みを感じると、憎悪を抱くと同時に多少なりとも愉快な気持ちになる。何故、そう感じるようになったのかはわからないけど、恒久的に痛みを求めてしまうのは、その独特の楽しさが癖になっているのかもしれない。

 

 例えるならば、豪雨の中で差し出されたショートケーキ。アスファルトに正座をして一口ずつフォークで掬い、ゆっくりと味わう。身体を劈くような雨に打たれながら、地べたに座り込みショートケーキを頬張っている。「一体何の罰ゲームだよ」と思うけれど、客観的にその構図を眺めてみると、なんだか可笑しくなってくる。勿論、それら一連の流れを自発的に行っている訳ではない。何らかの理由によって他人から命令され、渋々執り行っている状況。それでも、少しだけ愉快な気持ちになる。エンターテイナーとしての素質があるのか、単純にマゾヒズムが重症化したのか、それともいよいよ頭がおかしくなってしまったのか。理由を明らめる必要はない、だって楽しいことに違いはないから。

 

 傷つくことを恐れて、自衛策として本能が生み出した愉快感情なのかもしれない。愉快に思うことで傷を、そこから生じる痛みを正当化している。その楽しさが癖になっちゃって、傷を負うことを、痛みを求めるようになっている。幸福って、どことなくつまらない要素を含んでいると思っていて。対して不幸や不運はいつだって刺激的だ、縦横無尽に心の中で暴れ回る。その刺激性も愉快感情と紐づいているのか、わたしは自ずから不幸に手を差し伸べている。

 

 精神的な痛みの度合いが強ければ強いほど、生きていることを実感する。痛みって、過去や未来には存在せず、今この瞬間にしか感じることができない。大抵の場合、傷は時間の経過と共に自然治癒する。時には発生した痛みを未来へ引きずることもあるだろう。その場合でも、痛みの鮮度が薄れるというか、ただの生温い痛みになっていくような感覚がある。持続的な痛みには心が慣れてしまって、つまらなく感じる。自分が求めるのはそんなものではなく、瞬間的に発生する鮮やかな痛みを欲している。

 

 痛みを感じることで、”生”を覚える。わたしは現在を生きていることを思い知らされる。生きているからこそ、死にたいと思える。死んだ後には、死について考えることは叶わない。痛みを望み、死を想う、その根底にあるのは”生"の実感なのかもしれない。わたしは、這いつくばってでも、生きていたいのかもしれない。生きる為に、身や心を犠牲にしているのかもしれない。そんな下らない推測は止めにして、ウイスキーオンザロックで召し上がれ。

 

 

 痛いぐらいに抱きしめてくれよ、なんて。