[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0137 One hundred degrees celsius.

 

 T-falの電気ケトル。もうかれこれ10年ほどの付き合いになるだろうか。仕事の帰り道に何気なく立ち寄ったドン・キホーテで彼と出会った。定価より幾らか安く売られていて、当時金銭的に余裕が無かった私はその価格に魅力を感じた。お金が無いと、性能は二の次になってしまう。とりあえず見た目が黒くてお湯が沸かせる、ただそれだけでよかった。

 

 ”安いから”という理由で購入した電気ケトルを、現在でも毎日使用している。もうそこにいることが当たり前になっている。私は基本的に大きく分けて3種類の液体しか喉に流し込まない。[①水 ②コーヒー ③アルコール]となるが、水には”白湯”も含まれる。冷えた水よりも常温の水が好きだ。常温の水よりも白湯が好きだ。そして、白湯を飲むには電気ケトルが最適である。これはコーヒーの場合も同様に。

 

 一時期断捨離にハマっていた時期があり、電気ケトルも処分対象に含まれていた。所謂便利家電であり、生活必需品ではないと感じたからだ。片手鍋で水を沸騰させれば、同じように白湯やコーヒーが飲めると思った。

 

 そんな自分の甘さに絶望した。鍋からコップへお湯を注ぐことが非常に難関であった。もう色んな場所に熱湯が飛び散る、熱い、朝から台所がビチャビチャになる。それでも何とかコップに注ぎ終わった、次は熱すぎてまともに飲むことが出来ない。自身の猫舌が悪い方向に作用してしまっている。やかんを買うことも考えたけれど、そもそもやかんの造形が自分の感性にはそぐわない。そして一番の問題は、鍋でお湯を沸かしている間はその場を離れられないということだ。

 

 一方、電気ケトルは周囲に水分を撒き散らすことなく、的確にコップの中へお湯を注ぐことが出来る。絶妙な温度で私にお湯を提供してくれる。立ち上がる湯気からはどことなく気品を感じる(多分錯覚)。スイッチを押したあとはその場を離れても問題ない。わたしの場合は、お湯が沸くまでの間にストレッチをすることが日課になっている。

 

 あゝ、電気ケトルが愛おしい。ごめんよ、捨てるなんてことを考えてしまって。もうずっと離さないから、これからも一緒に暮らそうね。

 

 

 そんな矢先に電気ケトルが故障した。壊れたというよりも、注ぎ口にあるフィルター部分が破損していることに気がついた。そりゃあ10年も毎日使ってれば部品も駄目になるよな。諦めて新しい製品の購入を検討していたところ、どうやらT-falがフィルター部品のみを販売しているという情報に辿り着いた。価格は330円。「たったそれだけの金額で電気ケトルを延命出来るのか」、わたしは迷うことなくフィルターを発注した。

 

 納品までに約二週間を要するとのこと。14日の間電気ケトルを使用出来ないことが一番苦痛かもしれない。早く美味しい珈琲が飲みたい、早く手軽に白湯を飲めるようになりたい。失って初めて大切なことに気が付く、人間は愚かだ。って最近似たようなことを書いた気がする。本当に愚かだと思う、特にわたしの場合は。

 

 

 叶うのならば、サラサラの液体になりたい。そして、電気ケトルの中で沸騰してしまいたい。落ち込み気味のわたしを沸かせておくれよ。その為ならば、いかなる熱さにも耐えてみせよう。例え、わたしが私で無くなったとしても、それでも私は構わないから。

 

 なんて馬鹿なことを考えながら、今日を生きる為にお湯を沸かす。