[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0142 ささやかな贈り物

 

 愛されることを恐れている、そんな私の存在に最近気が付いた。

 

 上手な愛の受け取り方。そもそも愛ってなんだっけ、とか深く考え過ぎるともっとしんどくなっちゃうから、ほどほどにしておく。差し出された愛を素直にそのまま受け取ればいいんだけど、どうしても拒みたくなる瞬間があって。そういう時って、自信を失っている時なんだろうなって思う。心が塞ぎ込んでいる時ほど他人の愛が怖くて仕方がない、心が開けている時は質量以上に愛の温かみが心に沁みる。

 

 包装された愛を丁寧に解きほぐして中身を確認するには、心の安定が不可欠。自己肯定感が高い状態であれば、愛の形状を歪めることなく受け取れる。

 

 また出たよ、自己肯定感。日に一度は目にしている気がするよ、自己肯定感。いつまでこんな言葉に振り回されなければならないのだろう。そんなもの高くても低くても、どっちでもいい。自己肯定感が低いだなんて大いに結構、それも一つの魅力になり得るだろう。ひたすらに自分を肯定し続けている人間からはどこかサイコパス味を感じるし、それって一種の視野狭窄状態なんじゃないかとも思う。

 

 ”心の安寧”なんて永遠に訪れないんじゃないかな。ということは、いつまで経っても愛情に怯え続けて生きていく?。そもそも、わたしは”愛”そのものに畏怖している訳ではない。

 

 「きっと、失うことを恐れているんだ」

 

 その場限りの温もりを受け取って、何度も失敗してきた。その体温に慣れてしまうと、失った時には酷い寒気に襲われる。人間は、いつか必ずいなくなる。失いたくない、もう私は失いたくないんだ。

 

 それならば、最初からその温もりを感じなければいいと彼は言う。そのような極論を振りかざし続けた結果、歪み切ったわたしが形成された。「その歪さが魅力的であって、そんな自分って最高じゃん」というのが自己肯定?。歪さに向けられる愛情を真摯に受け止めることが愛の克服?。馬鹿らしい、本当に馬鹿らしいと思ってしまうのは自己否定?。

 

 相手から愛を受け取るよりも、先ずはあなたから愛を与えなさい。

 

 愛ってどうすれば与えられるのだろう。”与える”って表現は少し傲慢な感じがするから、”愛を配る”と言いたい。前提として、ある程度の持ち合わせがないと物理的に配ることが難しい。愛って他人から受け取り貯まっていくものではなくて、自分自身の中で生み出されるものだとわたしは思う。

 

 現在のわたしは、情愛の蓄えが充分にある状態。だからこそ、これからは配ることを意識して歩みを進めたい。愛されることを恐れてしまうのは仕方がない、少しずつでもいいから自分の愛を手渡してみて。その体温を受け取ってもらえれば嬉しく思うし、拒まれてもまた違う人に配ればいい。自分の中だけで愛を燻らせてしまうと、その熱量で心の一部分が溶けてしまう。そうならない為にも、愛を放出してしまって、先ずは自分から愛してみて。

 

 

 愛、愛、愛、って何度つぶやけば気が済むのか。

 愛の伝道師、限りなくダセぇなと思うよ。

 

 

 でもね、そんなダサい自分が好きなんだ。

 

 どれだけ歪んでいても構わない、

 これも一つの愛なのだから。