[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0149 嘲笑い初級

 

 他人のことを見下した状態で接する時、そこに浮かび上がる笑顔の歪さを当人は理解していない。

 

 気持ち悪いなと思う。勝手に評価して、自己満足でマウンティングして、薄気味悪い笑みを浮かべて。ゴリラがチワワを可愛がるように、彼らは見下した相手のことを愛玩動物とでも認識しているのだろうか。その気になれば、ゴリラはいつだってチワワの生命を終わらせることが出来る。それを理解しているからこそ、チワワに対して優しさを提供する。何故優しくするのか?それはゴリラが真の強さを持っているからだ。強さは優しさに変換することが出来る。だからこそ、目の前でキャンキャン吠えながら走り回る愛玩動物を、優しい眼差しで木陰から見守っている。

 

 しかし、お前はゴリラでもなければ私は愛玩犬でもない。強いて言えばお前はゴリラというよりは非力なチンパンジー。そんな雑魚に何故蔑まれなければならないのだろう。勝手にしてろ、100年後には私もお前も死んでるから。わたしは絶対に吠えない、声帯を掻っ切ってでも吠えることはしない。

 

 ならばどうするか、相手が一線を越えるタイミングを待つのだ。自分を保つ上でのボーダーラインは死守する、それを少しでも超えてきた時には容赦なく牙を向く。噛みつき。わたしに近づいた顔面を見るも無惨な焼野原にしてあげる。嘲笑を周囲に響かせるからには、それぐらいの覚悟を持っていて当然ですよね?。

 

 見下せば、必ず見下される。頭の悪い馬鹿者ほど他者を下に見たがる。そんな小さな脳味噌たちは放っておいて、自分のやりたいことに粛々と取り組みたい。上には上がいて、下には下がいる、それは全くの幻想。本当は上も下もなくて、前も後ろも存在しない。ただそこに在る自分だけが、唯一の存在である。その平行線上には他者がいるのだけれど、レールが違えばもうそれは”存在”の定義から外れてしまう。

 

 だから、わたしたちは決して人様を見下してはいけない。そもそも自分以外に誰も存在しないのだから見下せるはずがない。如何なる場合であっても、”比較”の最終着地点が不幸であることに変わりはない。自ら不幸を目指す必要も、その為に時間や労力を費やすことも、文字通り全くの無駄足となる。

 

 比較対象はすべて消えてしまった。残るは自分の肉体と意思のみだ。いつまでも他人のことを見下したり見上げたりしている陳腐な人間は、自分と向き合うことから逃げているだけ。ただの臆病者だと思うと、何だか哀れで泣けてくる。まぁ、そんなことどうだっていいのだけれど。それが幸せというのなら、眼球を慌ただしく上下に動かしていればいいのにと思う。

 

 見えない者は相手にしない。知能指数が低いマウンティング人間は一線を越えるまで放置する。「わたしは唯一無二の存在である」これこそが真実、それ以上でもそれ以下でもいけない。嘲笑が耳に障る場合は、内に秘めた怒りを原動力として行動を起こす。物理的に相手を殴るのではない、この世界を怒りで殴打する。概念や枠組みをひたすらに殴り続ける。一心不乱に取り組み続けるその姿勢からは、一種の狂気が滲み出る。行けるところまで行ってしまおう、もう自分以外の誰も彼もが存在していないのだから。

 

 

 「これこそが、一番の嘲笑いである」