[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0152 赤子が泣く

 

 例えば、周囲に不機嫌をまき散らしている人間がいたとする。「もしかして自分のせいで機嫌を損ねているのかしら」と真面目な人間は不安になる。しかし、単純に相手が”不機嫌になる”という選択を取っているだけであって、その選択に対して当人以外は介入の余地が無い。つまり、たとえ自分のせいで相手が不機嫌になっていた場合でも、それは完全に相手の課題である。”不機嫌にならない”という選択肢、”冷静に言葉で伝える”という選択肢、”足早にその場を後にする”という選択肢、様々な選択肢がある中で一番安直な”不機嫌”を手に取り振りかざしている。だから、あなたは必要以上に人間関係で不安になる必要はないんだ。あなたは、あなたの課題に取り組めばそれで充分なのだから。

 

 アドラー心理学の”課題の分離”はこのような考え方だったと記憶している。いかなる場合であっても、相手の一挙手一投足に怯える必要はない。わたしはこの考え方が好きで、これによって少しずつ八方美人を手放せるようになった。人の感情と天候は似ている。機嫌よく過ごしている晴れやかな人、不安気な表情を浮かべる曇り空、心が決壊する雨模様、怒声をまき散らす落雷、吹き荒れる罵詈雑言は台風の目。晴れている時が正しくて、雨降りが間違っている訳ではない。どれもすべて正しい、自分の感情に間違いなど存在しない。しかし、感情を吐露させるかは自分で選択することが出来る。

 

 これは落ち込んでいる時や苦しい時にも当てはめられる。気分が落ち気味の時は弱音を吐いてしまうこともあるし、泣き崩れてしまう時もある。普段の立ち振舞いからは考えられないような邪悪性が表出する場合もあって、それにより相手に迷惑をかけてしまう場合もある。要するに、自分以外の全てに対して余裕がなくなる。そうなると視野が狭くなって、心の豊かさがあっという間に削られてしまう。それすらも当人が選択していることで、”落ち込む”という選択を手に取っているということ。しかし、ここで一旦踏みとどまりたい。果たして、余裕がない状態で”落ち込まない”という選択を取ることが出来るだろうか?。

 

 わたしには難しいと思う。落ち込む時は落ち込んでしまうし、理解していても一つの選択を胸に強く抱きかかえている。そもそも視野狭窄の状態では”落ち込まない”という選択肢が見えなくなる。「あなたは”落ち込む”という選択をしているだけ」なんて言われると悲しくなるな。いつだって心は雨模様。共感はしてくれなくていいから、ただ話しを聞いてほしかった。理解はしてもらえなくていいから、突き放さないでほしかった。ただそれだけのことを、上手く相手に伝えることが出来なくて、そんな自分に腹が立つ。やがて、行き場を無くした自分への苛立ちが”不機嫌”へと姿を変えてゆく。

 

 他人に対しては”課題の分離”だなんて言っておいて、いざ自分が当事者になると上手く制御できなかったりする。「まだまだ未熟者だな」自分を責めそうになるけれど、落下寸前で踏みとどまる。完璧な人間などいないのだ。だからこそ完璧な理想像は捨ててしまえ。いつまでも自分を縛り付けていると、どこまでも不機嫌が増していく。機嫌を損ねてしまうのは仕方がないことだから、そんな時は独りで殻に閉じこもりたい。大丈夫、時間がすべてを解決してくれるから。どんな時も私だけはあなたを見捨てない、だから安心して今日は眠りについて。明日は少しだけ気分が上がってるといいね。それがわたしの望みであって、あなた自信の希望でもある。そうやって自分の膝を抱きかかえて、不機嫌を浄化していけたら楽しいよね。

 

 

 上機嫌を約束することが大人の条件ならば、

 

 人類は誰ひとりとして、大人に成り切れていないのだろう