[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0201 牛歩

 

 今日は駄目な日。宇多田ヒカルさんの"BADモード"を鼓膜に流しながら帰路を歩む。馬鹿らしくて笑けてくるし泣けてくる。他人の憂鬱はあくまで他人事でしかなくて、自分自身の憂鬱とは異なるような感じがある。所詮共感性なんてものはその程度なのかもしれない。もしくは、私自身の感性が乏しいのだろうか、それも極端な度合いで著しく。

 

 何をしても楽しくなくて、楽しもうと意識することも、寧ろ意識しないことを意識することも、いずれにせよ事の果ては泥沼に消沈した私自身。身体が重い、それよりも何倍も何十倍も心が重いんだよ。

 

[心臓付近に"心"があると認識されているけれど、発生する感情は脳が送り込んだ信号に過ぎないのだから、実際に"心"が存在するのは”脳の中”というのが表現としてより正しい。]

 

 少し前にこのような一文を読んだ。記憶が曖昧だから酔っている時に読んだのかも、だとすれば自分の中で改竄している部分があるかも。

 まぁいいか、兎にも角にも、私は想像してみた。脳に心がある、"胸が熱くなる"という表現は"脳が熱くなる"に変わって、トキメキを感じて鼓動が早まるのも脳の仕業。イラストでは心がハートマークで描かれることが多いけれど、胸部ではなく頭部にハートマークが咲いていたら、何だかそれはサンリオに在籍していそうなキャラクターみたいだなと思う。脳にハートが乗っかかっていて、首痛くない?折れないの大丈夫?頭がおかしいと思われるのは私だけ?それはわたしの心が機能していないからなの?。

 

 心を失えば、何も感じなくなる。それは即ち脳が思考を放棄するということで、決してわたしの意思で白旗を降っている訳ではないんだよ。気が付けば私は自分自身を失っていて、失うということは頭の中に栄養とか血液とかが上手く循環しなくなることで、その中でもこうやって文章に触れている時だけは少しばかり心が弾んでいて。いや、何回この下りやるねん、文章LOVE怪文書をいつまで生み出し続けるねんと冷静な自分もいて、そんなことばかりに思考力を割いてしまうから日常生活に支障が発現して、ゲボゲボ言いながら浅い呼吸のまま弱い自分醜い自分のまま今日を無下に生きている。

 

 アルコールと戯れている時が幸せだ。言葉に触れている時が幸せだ。ひとりで過ごす時間が幸せだ。ごく僅かに残留した思考力を自分が満たされる時間に全振りした方が、幾らか心が豊かになるんじゃないか。もうどうでもいいことを考えている場合じゃない。過去は勿論のこと、将来のことも、置かれている現状も、何もかもに対して割いている思考力を切り裂く必要がある。綺麗に裂ければいいのだけれど、どうしても尾を引く想いたちが濁流のように脳内へと流れてくる。そういう場合はどうしたらいいんだろうか。無数の縺れた糸で刃こぼれしたナイフを、自分以外の誰に突きつければいいのだろうか。

 

 心が頭の中にあるから、頭を小刻みに振ったり、殴打したり、撫でたりして感情のバランスを計ろうとしているのかもしれないな。どうしてもしっくりこない時はパニックに陥る、それは心の均衡が保たれていないからだ。感覚と心は繋がっている。いかなる形であれ、結びついた結果が感情になる。自分は感情に支配されてるなぁって思うことが多いの。高圧的な支配者にはなりたくないけれど、圧倒的な力をもって自分自身を支配したいとは思うよ。心の言いなりになって生きるには、この世界は不自由過ぎると感じるからさ。

 

 

 何故わたしが今日を生きていて、

 眠りの中で明日を目指しているのか、

 

 甚だ疑問で仕方が無いよ。