[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0202 指の隙間をすり抜けて

 

 失った者の悲しみは、当事者にしかわからない。

 

 一度手にしていた過去があるから失くすことが出来る。触れることの喜びを知っているから失くした時には悲しくなる。そんなトレードオフの関係にある痛みと快楽がもう少しだけ仲良くしてくれればいいのに、そう願ってはいるが叶う事は無い。

 

 朝の時間を獲得した代わりに、夜の時間を気絶して過ごしている。夜の時間に楽しんでいた何もかもが平気な顔をして日常から消えてしまった。消失、その上で難なく回り続ける生活が憎らしい。夜に会っていた人間と朝に出会うことは無くて、そもそも生活の中に他人が介在していなくて、かつて恩恵を受けていたような人の温かさはどこまでも遠くへ退いてしまった。違うかな、自分から身を引いたのかもな。そんなことを呟いても世間の中では強がりにしか感じられなくて、平和の象徴である青い鳥でさえもクスクスと鼻を鳴らし笑ってる。

 

「本を読まないということは、その人が孤独でないという証拠である」

 

太宰治

 

 羨ましい、本当に羨ましいと思ってる?。群れている人間が苦手で、集団を見るだけで鳥肌が立つ。たまに集まるぐらいなら未だしも、毎日のように関わり合い群れを重ねている人間達を見るとそれだけで気分が悪くなってくる。現代社会において過剰に群れを成す必要性が全く理解できない。これはあくまで個人的な一意見であって、群れる派の正当理由もあるのだろう。相手方の考えを根本的に否定するつもりはないけれど、自分の中にある感受性が自動的に拒否反応を示してしまうのだから仕方がない。

 

 いつからこんなことになってしまったんだろう。気付けば一人で完結することばかりに魅力を感じるようになった。他者の介在を必要としない、自己満足で自己完結の人生。たまに友人や知人と意見を交わすと、それが刺激になってとても面白い。でも、交わす相手がいない。そして、また殻に閉じこもる。”本を読むことで、著者との会話が始まる”みたいな解釈をまた本の中で読んだのだけど、わたしは書物との会話だけで満たされてしまう人間なんだろうか。いつになく頁をめくる指が覚束なくて、その所在の無さを物語っている。

 

 かつて手のひらの上に在った人の温もりを手に入れる為に、今日もわたしは言葉を吸収している。そして、嚙み砕いて自分の髄液を少し混ぜたものを、広大な海に吐き出す。存在感の無さが甚だしくて情けないかもしれないけれど、そうすることでまたいつか温もりに触れられるのではないかと淡く脆い細やかな希望を揺らしている。その思いとは裏腹に、次々と他人は消えていくし、どんどん肌寒くなっていくような気がするけれど、「それさえも結果的に必要なスパイスであった」と未来のわたしが言っていて、現在はその寒波に耐える時期なんだろう。暖を取るための焚火、燃やす薪はもうどこにも見当たらないから、今日も内臓から吐き出した言葉を燃やして何とか体温を保っている。

 

 わたしをすり抜けて零れ落ちた幾らかの温もりが、寒がりな誰かの下に流れ着けばいいのに。

 

 そんなことばかりを考えているよ