[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0525 意味と言い訳

 

「わたし達が存在することそのものに意味なんてないのだから、生きる意味を探す必要なんてない。ただあなたがここにいる、それだけでいいんだよ」

 

 色んな本を読む中で、たくさんの人とお話しする中で、このような意見が入ってくることが多い。少し前までの自分は「そうだよな、意味なんてないんだよな」って感じだった。意味がないものを見つけようと必死になっているから辛いのだ。ないものを探し続けることに疲れてしまうのだ。そう自分に言い聞かせるように納得を深める、もうなにも考えなくてもいいのだ。ただ生命を存分に味わう、そんな生き方をしてみようと思った。

 

 いつまでも奥深くでチラつく生きる意味みたいもの。見て見ぬふりを続けることも、これまた心に悪影響を及ぼした。人生を快適に生きるためには、時として馬鹿になることが大事だと思う。なにも考えない、あえて考えないでいる時間が必要なのだ。人生に嫌気が差したり、苦しくなっている時には考え過ぎている状況が多い。いくら考えても解決しない問題に脳と心のエネルギーを費やすことは馬鹿げている。意識的に馬鹿になることは利口な行為で、利口ぶってどこまでも考えを深めることは馬鹿の所業である。世の中は皮肉で構成されている。思考を放棄することも、どこまでも深く考えることも、わたしにとってはどちらも苦しい。一体どうすればいいんだよ、人生。

 

 

 酒でまみれた頭の中に、ポンと音を立て浮かぶもの。いつだって閃きは唐突にその姿を現した。そうか、そうだったのか、無理に自分自身を変えようとしなくてもよかったのだ。理解が深まる音がする。

 

 生きる意味を問うてしまうのなら、それを探し続ける人生というのも悪くないんじゃないだろうか。他人は「存在に意味はない」というけれど、だからといってそれは考えない為の口実にはならない。ずっと人生に対する違和感がつきまとっている、わたしはこの違和感の正体を、ゆっくり考えていけばよかったではないか。それが生きる意味を探すことであり、理由を見つけることである。自分にとっての生きる意味とやらを、日常の中で構築していけばいい。「考えてはいけない」「馬鹿になれ」「意味なんてない」などと無理に抑え込もうとするから余計に苦しくなってしまう。わたしはわたしのままで正解だったのだ。誰に何を言われようと、信念を折り曲げることなんてなかった。

 

 生を享受しながらも人生に絶望しています。どうしてこんなにも意味のないことを考えるのか、際限なく頭のなかに浮かんでくるのか。それがいけないことだと思い込んで、理屈で自分を壊そうとしていました。ずっと死にたいと思っています、いなくなることばかりを考えています。そんな自分の状態は、間違いなんかではなかった。これは単なる個性に過ぎなくて、ちょっとばかり共感を得られないだけ、ただそれだけ。自分自身を否定するからもっともっと苦悩が勢いを増す訳であって、先ずはその個性を受け入れることからはじめたい。皮肉でシンプルな世の中だから、わたしはわたしの考え方を抱きしめながら生きていく。生きる意味を探すこと、それこそが、わたしにとって意味のある人生だった。