人は見た目ではない、という方がいる。その後に続く言葉が「内面」であれば心が綺麗なのだなと思う。続く言葉が「お金」であれば、リアリストなのねと言った具合である。心の貧富はさておいて、今回は人の「見た目」について考えたい。
外見。今日では身なり、特に顔面が重視される世の中を感じられる。それは世にSNSが普及したからかもしれないし、それに伴い外見のグローバル化が進んでいるからなのかもしれない。「なんでこんな世の中になってるんやろ」程度の傍観者としての一意見であるからして、核心を突く自信を持ち合わせていません。それでも世の流れが気になる為、わたしなりに深堀していきます。
十代や二十代の頃はファッションに気合いを入れていたけれど、三十代に突入して思う事は、兎にも角にも清潔感が全てなのではないか。「わぁ、あの人お洒落」と思われるよりも、先ずは相手に不快な思いをさせないこと。体臭や香りはもちろんのこと、服、髪型、肌、爪、靴...etc。これら全ての総合点が清潔感として反映される。女性の方々からすれば「なに当たり前のこと言ってるんよ」となるかもしれないけれど、現代においてもこれを理解できない男性は多いものです。知人に清潔感の塊のような男性(同性から見ても)がいるのだけれど、聞くところによるとやはりそれなりに、というよりも、かなり細々と手入れされている。しかもそれが習慣となって、当たり前のことになっているから清潔感が持続する。最近よく言われるのが、イケメンで不潔な人よりも、普通顔で清潔感がある人、の方が好まれるらしい。ちなみに彼もお顔は一般的な範囲内。けれども総合的に見た時に、やっぱり綺麗だなぁと思うんです。
この清潔感も、「見た目」の一部分に含まれるならば、やっぱり人って見た目じゃないのかしら、と個人的には思います。美男美女として産まれなかったからといって、はいゲームオーバーということにはなりません。整形やメイクをして綺麗になるもよし、ボディメイクをして引き締まった体型を目指すのもよし、栄養素を意識して肌質を整えるのもよし。何かしら外見を磨く方法はあって、やはりその為にはそれなりの努力が必要ですよね。しかも、それらを継続するのはとても面倒くさい。だからやらない人が多いし、できない人が多い。逆に、相応の努力さえすることが出来れば、その他大勢から飛びぬけることが可能になる。そのようにいまのわたしは考えています。
見た目がよくなければ、中身を知ろうとは思わない。これはよく友人と交わしていた言葉です。最低限相手を不快にさせない見た目でなければ、誰かと仲良くなることは難しい。見た目が整っていなければ、会話までたどり着く前に撃沈してしまう。外見とはつまるところ、開放的な門扉のようなもの。錆びれた扉を一目見て、中に入ろうかしらとはならないのです。だからこそ、求められている清潔感。美的感覚は人それぞれではあるけれど、最低限人を不快にさせないような、雰囲気が必用であった。そうして初めて会話がはじまる。わたしは見た目よりもその人が使う言葉に注目してしまうのだけれど、やはり身なりが綺麗な方は、綺麗な言葉を使用される場合が多い。見た目だけ綺麗に着飾って、語彙が壊滅的な人も散見されるけれど、清潔感が欠落して言葉だけが美しい人って未だに出会ったことがない。これはわたしの偏見のコレクションで、ただの思い込みかもしれないけれど、ある程度内面は外見へと反映されるように思う。このように考えると、綺麗な言葉を扱う人が、綺麗な見た目になっていくことは何ら不思議なことではない。語彙に乏しく、外見だけ華やかな人は、着飾る能力だけが高かったのかもしれません。
なにごともバランスが大事だと言われるけれど、正にその通りである。どちらかが欠けてもよろしくない。どちらかが突出し過ぎても片方の粗が目立つ。最低限の清潔感を意識しつつ、これかも言葉と向き合っていたい。そんなことを想う休日のお昼時、誰かと会話がしたくなる。冬の寒空とカフェラテの香り。
了