N.0689 子守唄に包まれて

この一年が消えてしまうような特別感、どこかで胸が痛むような錯覚。言葉を綴ることが生活になって、生きることは書くことになって、日常の一部分に溶け込んで。とっても幸せなはずなのに、満たされていると感じるのに、どうしてこんなにも寂しいんだろう。書きたいことを書きたいように書いてきました。時にはお褒めいただいたり、感想をいただいたりもした。この数年間で幾らか文体は変わったけれど、根底にある価値観はいまでも変わらないまま微笑んでいる。死生観について、日常について、わたしはこれからも書き綴りたい。わたしの言葉を紡いでいたい。
突然ですが、この記事を境目として、次項からは新たに違う場所で書いてみようと思います。この場所はシンプルで使いやすくて居心地が良かったけれど、新たな挑戦として、異なる場所を歩いてみたい。場所が変われども、書く人間は変わらないわけであって、でも、これまでとは異なる感覚が確実に存在すると思うのです。これまで読んでくれた人、本当にありがとう。今後ともよろしくお願いいたします。わたしは、ずっとわたしのままで、自分の直感を信じながら、言葉と真摯に向き合っていたい。誰が何を言おうとも、わたしはわたしの文体を、ずっと抱きしめていたいのです。いつかいなくなるその時まで、言葉と、文章と、最愛を。
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了
N.0688 優しい記憶
これまでずっと忘れていたことが、急に頭の中で湧き出ることがある。それは些細であったり重大であったり様々だけれど、そういう時、わたしはこれまで何を考えて生きてきたのか、一つ一つ組み立ててきたものが見えなくなるような、不思議な感覚に包まれる。
あたまの中で自分自身が浮かんでいるみたい、と思う。まだ胎児だったあの頃の、脆さと儚さと愛らしさ。すべての人から祝福される力があった、おさな子と幾らかの残酷さ。わたしは、本当にこれまでを生きてきたんだろうか。これまでを、ちゃんと、歩いてこられたのだろうか。忘れてばかりの大切なことを、気付かないフリ見ないフリして笑って誤魔化して、果てには本当に無かったことにしてしまう。大人になるにつれて、成長するにつれて、曖昧な冷酷さが身に沁みつく。浮かない顔が張り付いた表情を、世間は「諦め」と呼称してわたしたちの気力だけを削ぎ落す。
いつか生まれ変わることがあるならば、なんて思わない。もうこの一回で終わりだと、身体が朽ちればそこで終わりなのだと信じている。前世や来世になにかを期待することは、現在をすべて放棄しているのと同じこと。浮かない顔を浮かべていても、浮かべなくても、生涯はあっという間に幕を閉じる。地球にはたくさんの人がいて、毎日誰かが死んで、誰かが産まれて、喜んだり悲しんだり愛し合ったりしている生物。蟻を潰すことはなにも感じないのに、自分が潰されることを酷く恐れるような、その程度の生物。それなのに、どうしてこんなにも複雑な構造をしているのだろう、あたまに浮かぶのは脳とわたし。ただ単に産まれて、死ぬまでを味わうだけのことなのに、どうしてこんなにもたくさんのことを考えているのだろう。文明が育まれてしまうのだろう。わたしがわからなくなって、見えなくなって、身体の輪郭が段々ボヤけて薄らいで、時間と共に世界の一部分として溶け込んでいた。わたしは世界で、世界はわたし。それならば、身体が無くなることも、精神が消え去ることも、なに一つとして怖くないね。いなくなることを恐れずに、終わるその瞬間ばかりを夢想せずに、ただ現在を味わうことが出来る。わたしがわたしの形を失っても、あなたがあなたの形を失っても、大丈夫、きっと。やがて形は記憶となって、それすらもみんなが忘れていくから。だれもが、なにもかもを、忘れてしまうのだから。
お母さん、手料理、鳴り止まないチック、年末年始のお買い物、布団に横たわる後ろ姿、休日の袋麺、片付くことの無い部屋、公園とドッジボール、嫌々通った習い事、テレビゲーム、好きな子、嫌いな人、駄菓子屋、銭湯、新聞配達、お金の要求、包丁を向けたこと、家を出たこと、失った居場所、たくさんの傷、サンドイッチ、情愛、ブラックコーヒー、卒業、強迫性、感謝、自殺願望、ショートケーキ、縄紐、笑い声、執筆、、全部、全部なにもかも
了
N.0687 繋ぎ合わせ
「わたしたち、今年は色々変わったよね」
会社で先輩と話していた。生活環境がガラッと変わり、誰かと一緒に暮らし始めたり、それがとてもよいことだったり。変化のなかには思わぬ産物が隠れていること、ある。変わらなければ、その一歩を踏み出さなければわからないこと、わからなかったことがたくさんあった。
頭のなかで思いついたことを、そのまま現実に落とし込む。そうすることで、日常を取り巻く状況が大きく変わった。必要、不必要が明確になった。お酒はわたしに必要なかったし(大好きだけれど)、愛や書物はやっぱりわたしには必要であった。これまでとても大切に思っていたことが、いとも簡単に必要でなくなったり、生きる上でぞんざいに扱っていたものが、実は何よりも大切なものであったり。物事を単視点でばかり見てきたけれど、人間って生き物はやはり複合的な生き物だった。多方面、多角度からこの人生を捉えたとき、これまで渦を巻いていた苦しみや悩みの造形が、少しずつ明確に視えてくるようになった。
先日、友人と飲んでいた時に「今年のはじめ、一年前に比べると、文章に深みが出たね」という一言をいただいた。素直にとっても嬉しかった。一年前の記事を読み返すと、自分でも「これほんまに僕が書いた?」となるから不思議。それぐらい、心境の荒廃具合が違っている。現在はちょっと落ち着き過ぎているかもしれなくて、逆にそれが落ち着かなかったりする。それでも、着実に変わってる。日々、死に向かい心臓を動かすなかで、ちゃんとわたしを生きられている。
長い間変わらない選択をしてきたけれど、それはそれでよかったのかもしれなくて、何事も適切なタイミングがあるのかもしれない。自己肯定とか、否定とか、愛とか友情とか優しさとか。もう深く考えることは終わりにして、微笑を浮かべていればそれで良かった。心さえ開いていれば、あとは流れに身を委ねていたい。見たこともない景色でさえも、それはちっぽけなものであるかもしれない。それでも、わたしはその儚さや情景を背負いながら、これからの現実を生きていく。時には誰かの悲しみに触れながら、愛情や温もりを感じながら、泣きながら苦しみながら、わたしは言葉を紡いでいる。きっと、ずっと、いつまでも。
了
N.0686 濡れた瞳
未だに雪が見えない都会のなかを、肌寒い空気だけが通り抜ける。知らぬ間に奪われた体温と、植え付けられた人肌恋しさ。冬は、わたしを饒舌にさせる。自然と会話を求めてしまう。もう誰とも会えないかもしれない、そんな気持ちがふわり頭の中に浮かんでる。俯いて憂鬱、見上げれば誘惑、振り返ったその先にはいつだって、喪失。この寂しさが自然な感覚だとするならば、わたしはもう、人間をやめてしまいたい気持ちになる。澱みつつある心の上を、ブルーな感傷が跨いでいる。晴れ模様、曇り空。浮かない顔を浮かべるわたしが、いつまでもどこか悲しかった。「いとも簡単に人は人を裏切るけど」と好きな歌手が言っている。そんなことしたくはないと思うのだけれど、知らぬ間にいくつもの裏切りが重なっているのかもしれない。そんなものなのかもしれない。知らぬ間に切り傷が増えているのと同じで、誰かのことも傷つけてしまっているのかもしれない。それが人間だと言われれば、もうそれ以上なにも言えなくなるけれど、心のなかでは誰かのことを抱きしめていたかった。もうすぐ今年が死ぬ。やがてわたしもいなくなる。いつまで心が燃え続けるのか、尽きるその瞬間にはなにを想うのか。寒空に追いやられた一時的な感傷、冷えた心が痛々しく、瞳の中で泣いている。口に広がるブラックコーヒーの味わいだけが、いまのわたしには温かかった。
了
N.0685 一寸先の星たちよ
気が付けばもうこんな時間、あっという間に過ぎ去る時間。生きることは心臓を動かすこと。でも、わたしたちにその自覚はなくて、生命維持、恒常性に生かされている寿命たち。自然淘汰が少なくなった現代だけれど、それでも、予告なく終わりを迎える瞬間が、誰にも訪れる可能性がある。
また明日、また来年、また来世。未来に期待をしているから、どこかで必ず会えると信じているから、自然と言葉がこぼれ出る。あなたも、わたしも、明日も明後日も生きている。確信にも近い不確定な未来を想像して、カレンダーに予定を書き入れる。また会えることを期待して、やがてその期待すらも忘れてしまって、わたしたちは、未来のなかで笑ってる。
夜空を見上げる時、同じ空の下であの人が生活している。なんてことは思わない。どうしても、会っていない時間、顔を合わせていない時間は、生きていることに確信を持てないままで。もしかすると、とは思わないけれど、日常を想像することは不可能のように思えた。電波を飛ばして連絡すれば安否確認は簡単だけれど、返ってくるのは機械を通した声音やテキストの集合体。顔を見て話すまで、会ってその表情を確認するまでは、どうしても、どうしても。
いなくなることが決まっていて、その瞬間がわからないのならば、会っている時間、そのかけがえのなさを噛み締めることが出来ただろう。そう、わたしたちはみんな死んで骨となり灰と化す。その事実を日々のなかで忘却しながら、空気感には惰性が蔓延してる。もっと、もっと、大切にして。あなたがいなくなったら悲しい、わたしがいなくなったら、もう何もかもが叶わないのに。こうして大切な人が同じ時間に生きていること、その奇跡をもっと重く受け止めて。そのすべてを感じるために、あなたの寿命と時間を使って。
気が付けばもうこんな時間、あっという間に過ぎ去る時間
都会の夜に浮かぶ星は、目を逸らした隙間に消えてゆく
了
N.0684 体感として
この一か月ほど、身体の感覚を大切にしている。これまで散々無下に扱ってきた心身を、一つ一つ紐解いていく。身体の声に耳を傾けて、心で柔らかく寄り添うイメージ。あぁこんなにも、蓄積されたたくさんの傷たちよ。少しずつ、ほんの少しずつ、身体が温かくなっている。
たとえば、間髪いれずに食べ続ければ、身体が重くなってしまうだろう。無理に眠ろうとすれば、頭が苦しくなってしまうだろう。冷えた末端を放置すれば、やがて機能しなくなるだろう。人体の構造上、即座に対応しなければならないことって少ないように感じています。少しばかりの猶予が与えられ、ある程度の無理が効いてしまうのが人間です。その少しばかりの無理が積み重なって、果てには身体がぶっ壊れる。もしくは、そのセーフティーネットとして、心が壊れる音が響く。いまになって激しく痛感しているのだけれど、自分自身の身体というのは、心というのは、本当に大切な存在です。あなたにとってはあなたの、わたしにとってはわたしの、この心身こそが人生を形作る土台となる。
科学的根拠、いわゆるエビデンスと呼ばれるものがあります。偉い人たちが研究に研究を重ねた結果、獲得された実証ではあるけれど、時としてこれが当てはまらない場合がある。西洋医学では三食偏りなく豊富な栄養を摂りなさいと言われるけれど、好きなものを好きなように食べて楽しそうに生きている人もいる。あらゆる医者学者が7時間睡眠を絶対神話のように語っているけれど、たくさん眠るとしんどくなる人だっている。孤独は喫煙より死亡リスクが高まると言われるけれど、その孤独を愛してやまない人だって存在する。十人十色、千差万別な世の中で、「絶対」とされることなんて有り得なかった。冷静に考えてみればよくわかることなのだけど、この冷静さを取り戻すことがいかんせん難しい。
わたしはこれまで痩せることが恐ろしくて、”たくさん食べなければ”と思いながら食物を流し込んでいた。いかに過食だったかを思い知り、胃腸の負担を減らす為に食事回数を減らした。ちゃんと消化が完了した後、エネルギーが枯渇した状態でしっかりご飯を食べる。そして、わたしは自他ともに認める偏食です。同じもの、身体が気に入っている食物を取り入れたい願望がある。ある程度栄養素は意識しているけれど、決してバランスが良いとは言えないと思う。けれども、そこには一種の瞑想的習慣というか、自分と向き合う感覚みたいなものがある。身体だけではなく心までもが軽くなったような、一種の幸福感がそこにはある。
睡眠に関しても同様で、これまでは”7時間眠らなければ”と思って眠くないのにベッドに入ったり、逆に睡眠時間を荒削りしたり、時期によって色んな形態を試してきたけれど、「眠くなったら寝る、目が覚めた時間に起きる」というのが現在の自分には合っているみたい。そこにあまり時間は関係なくて、あくまで自然に身を任せるような感覚。仕事がある日は起床のデッドラインを設けてはいるけれど、大抵の場合はそれよりも早く目が覚める。3時に目覚めることもあるし、5時に目覚めることもある。そして、日中に一度か二度はお昼寝をする。これも眠気がきたタイミングで行う。一度にガッツリ長く眠るよりも、眠気を日中に分散する生き方が自分には合っていた。時として、長く長く眠ることもある。すべては自然の流れ、タイミング次第なのです。
結局のところ、自分の身体を使って、地道に最適解を導いていくしかないのだろう。書物やメディアは生き方の参考例を提示してくれるけれど、それがいくら正しい方法だったとしても自分に合うとは限らない。正義やエビデンスを鵜呑みにして、合わない方法に心身が蝕まれては本末転倒だと思うのです。まさにこれまでの自分がそんな感じでした。世の中には栄養摂取は青汁のみで生活している方もいれば、毎日大量のタバコとドクターペッパーをガンガン摂取して元気に長生きされたクレイジー婆ちゃんもいる。その御婆ちゃんいわく、「わたしにそれらの摂取を止めるよう警告した医者は、全員わたしより先に死んだよ」とのこと。この一言にすべてが凝縮されている気がするのだ。これこそが、わたしがずっと欲しかった重圧な言葉の響きだった。
情報過多。これはいけません、ああしなさいこうしなさいと有難いお指摘が飛び交う中で、一体なにが正しくて、なにを信じればいいのだろう。やっぱり最後にたどり着くのは自分自身の感覚、この体感こそが全てであった。心地良いと思ったものは手に入れる、必要のないものは潔く手放す。そんな生き方が、一種の動物としての感性が、わたしはとても大事だと思っています。自然の流れに逆らわないこと、老いも、病も、やがて訪れる死でさえも。自分の中に流れる速度を、疑うことなく信じていたい。自分としての生き方を、いつまでもずっと、続けていたい。
了
N.0683 Merry Christmas Mr. Lawrence
いつも通り、一曲の音楽をリピートしながら文章を書いている。毛布を羽織りながら机に向かう中で、一つのことに気が付いた。
「Merry Christmas Mr. Lawrence / 坂本龍一」
そうか、今日はクリスマスなのだ。一年を通して同じ曲が流れているから違和感がなかったけれど、正しく今日にふさわしい一曲だった。なんとなく、不思議な感覚に身を包まれたまま、筆を進めていく次第です。
大人になるとサンタはこなくなるらしいのだけど、それって一体どうしてなのだろうか。サンタさんは見るからに大人の風貌をしているけれど、実際は何歳ぐらいなのだろうか。豊富に蓄えられた髭と白髪から察するに、日本で言えば還暦は迎えていそうなものだけど、だとすれば体力が凄まじ過ぎると尊敬してしまう。
なんて馬鹿げたことを考えている明け方五時。大人のみなさん、サンタはいらっしゃいましたか? プレゼントをいただけた人も、いただけなかった人も、みんな今日を生きている大人です。わたしの元にサンタは現れませんでした。きっと、求めていなかったからだろうと思います。「こなくていいよ、その分を他の頑張っている大人に渡してあげてね」心のなかに住んでいる子供が、今年はそんな大人びた物言いをしていました。ちょっぴり生意気で、けれども成長を感じられるような、心の在り方。
サンタに懇願してまで欲しいものが思いつかないし、例えばブランドのバッグやアクセサリーをいただいたとしても、最早心が躍ることはないと思う。そもそも、サンタとブランドは最も相性が悪いように感じます。それこそ子どもの頃は欲しいものが溢れていたけれど、年齢を重ねるにつれて欲望が極めて薄まった。どちらかといえば、わたしはサンタになりたい。サンタ側でありたいと考えています。
渡される側よりも、渡す側の存在。身近な大人にささやかなプレゼントを手渡したい。生きているとすれば、数十年後には更に物欲が薄れているだろうから、そうなれば最早サンタと同じ心境に達する。子供の喜ぶ顔がみたい、なんて気持ちになっているのだろうか。現在でも小さい子にプレゼント渡したい症候群なのに、初老の己自身を想像すると恐ろしい。ピアスは開いたままなのだろうか、タトゥーは入っているのだろうか。美しいおじいちゃんを思い浮かべながら、未来の自分自身に期待を抱く。
自分の心を充分に満たしながら、溢れた分で誰かにプレゼントを手渡したい。誰かになにかを渡すためには、もちろんお金が必用である。その為に必死こいてお金を稼ぐ、働きまくるという訳ではないけれど、それも一つの目的として悪くないんではないか。自分一人の為だけに生きるには、人間はあまりにも無力だ。自分ひとりだけ幸せになっても、他者との接触が皆無であれば、それはあまりにも虚しい現実。だから、残った心の余力を大切な誰かに手渡したい。有形無形問わず、わたしはわたしのやり方で、頑張っている大人のことを労いたい。その弱く逞しい背中を、ゆっくり優しくさすってあげたい。
了