[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0439 贅沢の本質

 

 あなたにとって「贅沢」を感じるときは一体どんな瞬間でしょうか? 美味しいご飯を食べたとき、ちょっと高いお酒を飲んだとき、欲しい服を買ったとき。人によって様々だとは思うけど、その大抵が「なにかを手に入れた瞬間」なことが多い。

 

 これを自分事として考えたとき、わたしにとっての贅沢とは「手に入れられるけど、あえて手にしていない状態」なのでありました。その気になればいつだって買うことができるけど、あえて買っていない状態。いつでも手に入るからこそ、別にいま手に入れなくても問題ないと考えられる状態。わたしは、この心の余裕こそが贅沢そのものだと考えています。物質的な満足は手にした時がピーク、時間経過と共にその有難みは薄れていく。それならば、もう手にしなくていいんではないか。ちょっとだけ欲しいけど、でも心からそれを渇望している訳ではない。だったらもう少し心が盛り上がるまでそのまま見守ってあげればいいんではないか。そんな余裕、あぁとっても贅沢だなぁと感じているのです。

 

 時間的な余裕も贅沢の一部分だと考えています。仕事前に飲む一杯のコーヒー、読書、スマホと断絶されたアナログの時間。なんとも贅沢、余裕がさらなる余裕を生み出してくれる。なにかと多忙な現代社会、あれもいいこれもいい、情報処理能力が問われる時代。流行に乗り遅れると世間から淘汰されてしまうような風潮、錯覚。年々その傾向が強くなってる気がするんです。なんでもかんでも効率化、生産性を追い求め、それこそがなによりも合理的である。なんかもうそんなのって、頭がパンクしてしまうのよ。誰と戦っているのかもわからない意味不明なレースなんて、早々に離脱するのが一番なのだ。最早わたしたち、なんにもしなくていい。そりゃあ日々の労働は大事だけど、それ以外の時間、もうトレンドを追うこともしなくてよろしい、SNSに一喜一憂しなくてもよろしいのだ。加速的に流れゆく現代のなかで、あえて亀の速度で生きてみる。ゆっくりと世界を見渡してみる。そんな生き方、贅沢な人生だと思うんです。

 

 書いているなかで気が付く事、わたしは「余裕」そのものに贅沢性を感じているみたい。最近痛感したことなんだけど、割と深刻な睡眠不足が続いたとき、人に優しくできなかった。人間は眠りが充足していないと他者への思いやりが削がれるのだ。そんなこと当たり前、と理解した気になっていただけだった。本当に優しくなれない、それは自分に対しても同様に。これはいかんと思い立ち、全てのやりたいことを一旦脇に置いて、睡眠だけに集中する。そうしてぐっすり眠れた翌日には、ある程度の思いやりがカムバック。お帰りなさい、優しさ。

 

「何かが不足していると感じる時、そこには余裕がなくなっている」

 

 これは睡眠だけに限らず、お金でも、時間でも、健康でも、愛情でも、なんでもそうなのだ。不足感こそが人生をやせ細らせる元凶なのだった。反対に「現在の自分は充分に満たされている」、そんな充足感からは余裕の香りが漂っている。人が不機嫌を発動させる時、そこには何かしらの不足感が存在しているとわたしは考えていて。たとえば満員電車、見渡せば一人ぐらいは不機嫌な人間が見つかるものです。もしかするとこの人は、睡眠が足りていないのかもしれない、お金に困っているのかもしれない、時間ばかりに追われているのかもしれない、どこか身体が痛むのかもしれない、最近人肌に触れていないのかもしれない。そのどれもが邪推に過ぎないものだけれど、目の前にある不機嫌には必ずなにかしらの不足感が渦を巻いている。

 

 この不足感から脱却するにはどうすればいいのか。たくさん眠ること、お金を稼ぐこと、早寝早起きをして時間を生み出すこと、食生活に気を配ること、家族を大切にすること。不足感が発生している部分に焦点をあてて改善することが一番の近道のように感じるけれど、渦中では改善の余裕すら生まれない場合がある。だからわたしはこう考える、充足感を感じる最も手っ取り早い方法は「気付くこと」なのです。

 たとえば、睡眠が足りないときはそのことばかりに目が行きがちだけれど、その一方で食べるものに困っていない自分もいる。身体に痛いところがない自分がいて、人から愛されている自分がいる。無意識のうちに「無いもの」ばかりを探していて、だからこそ意識的に「有るもの」を探しにいくことが大事。これは俗に言うポジティブ心理学なんかではなくて、個人的には「積極的な余裕の獲得」として考えています。

 大抵の人間がどこかしら欠けている。それと同じぐらい、なにか満たされている部分があるはずなんです。「そんなもんねぇよ」と仰る方がいるとすれば、それはあなたが気付いていないだけです。そこにある充足に目を向けようともしない、他人と比較して狭い世界に閉じこもっているだけなんです(過去のわたしのように)。一度満たされている部分に気が付くと、その充足に焦点が当たる。「気付くこと」が習慣になると、以前よりも不足感が薄らいでいる、そんな自分にも気づきを得る。そして何度も言いますが、充足のなかには幾らかの余裕が漂っている。その余裕こそが最上級の贅沢だと考えています。わたしにとっての贅沢とは、意識的に獲得するものなのです。