[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0136 唸り、喚き、叫べ

 

 昨日は丸一日自宅でおとなしくしていた。

 

 お菓子とアイスとコーラしか飲んでいないのに、腹が減らない。動かないとこうも食欲が消失してしまうものなのか。マクドナルドをデリバリーしちゃおうかと思ったけれど、食べきれないで残飯と化す未来が容易に想像できたのでやめた。

 

 デジタルデトックス、思考回路の浄化作業。半日ほど実行するだけで脳内がスッキリとするものだ。スッキリとした脳味噌で情報に触れると、感覚が全く異なることに初めて気がつく。疲弊した心で何を取り入れても、情報はくたびれて枯れてしまう。やっぱり、人にはある程度の余裕が必要なんだ。余裕がない時は、一旦世の中から離れた方がいい。今回身を持って体感した、わたし達はもう少しアナログな世界を生きた方がいい。

 

 もう悩むことは止めた。苦しい時は苦しいままでいい、思考停止して日々のルーティーンに勤しめばいい。自分の中にある一種の儀式というか、無心で取り組むことで精神が安定すること。代わり映えしないとか機械のようだと形容する人もいるけれど、そういった無心状態を続けることによって、情動的なアイデアが生み出される。自分のルーティーンを疑うな、ただひたすらに信じて実行すればいい。それが自信に繋がる、平静へと繋がる。それらの総称を人は”余裕”と呼ぶんだよ。

 

 何事も深く考え過ぎてしまう性質だから、”考えないこと”が何よりも大事だ。起きる時間も、服も、食べ物も、運動も、音楽も、何もかもが予め決まっていれば貴重な思考領域を侵害されずに済む。それでいい、それが何より一番大切じゃないか。当たり前になりすぎて、その恩恵を受け取り切れずにいた。考えなくていい、ってとても幸せだ。その思考領域を自分の大切なことに費やせば、常人では辿り着けないような発想が頭の中に湧き上がる。物事は非常にシンプル且つ単純だ、シンプルとはすばらしいことなんだ。

 

 大丈夫、定められた一連のルーティーンも、必要に応じて少しずつ変化していくものだから。しかも、その変化は無意識の中で行われていたりする。「変えるぞ!」と意気込んでいる時ほど、その前向きな意思表示に敗北することが多い。同じことを毎日繰り返していると、過不足が明確に浮かび上がってくる。削いだり足したりをして毎日少しずつ微調整していくと、一年後には全く違うものになっていることもある。現在の形がどのような物であっても過去を否定する必要は無い。その時その時に応じて、形は少しずつ変わっていく。こんな当たり前なことを、わたしは見失っていたんだ。

 

 

 夜が来た、たまらなくなって外へ出かけた。といっても、近所のドラッグストアにストロングゼロを買いに行っただけ。それでも肺の中身がすべて入れ替わったかのように、気分が幾らか晴れやかになった気がする。やっぱり、わたしは動かなければ駄目になってしまう。駄目になっている時ほど、適度に身体は動かし方がいい。先ずは散歩から始めよう、慣れてきたら少しずつテンポを上げていけばいい。朝陽が目を刺すようなら、夜の中に身を委ねる。あくまで少しずつ、ゆっくりでいいから、これからも歩いていこう。

 

 昨日飲んだストロングゼロは格別に美味かった。とても長い一日の中を何もせずに居ただけなのに、達成感みたいなものがこみ上げてきた。良い部分も悪い部分も、何もかもを含めてわたしなんだ。それ以上でもそれ以下でもない。誰がなんと言おうと、私がわたしであることは不変的な事実なんだ。それはわたしが自分自身を否定できない理由にもなり得る。自分自身でさえも、”私”という存在を否定することは出来ないんだよ。だからこそ、もっとエゴイストであれ。自信を持ちなさいとは言わない、誰に何を言われても微笑を浮かべ続けて。不気味でいい、唯一無二の存在であれ。

 

 弱いからこそ、強くなれる

 弱いからこそ、優しくなれる

 弱いからこそ、自分と向き合える