[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0446 生きてる証をちょうだい

 

 その人が生きた証拠みたいなもの、いまを生きている証みたいなもの。もしそんなものがあるのだとすれば、それは一体どんな形をしているんだろうか。

 

 誰かの役に立つことが証拠として確立される、きっとそんな人もいる。愛することが証になる人、また会いたいと思われることが証になる人、十人十色、様々な証拠があるのだろう。生きていること、それだけで立派な存在証明のはずなのに、わたしたちは生き甲斐とやらを探している。誰かを必要としたくて、誰かに必要とされたがっている生き物です。だから家族を形成したり、子を授かったりする。だから犬や猫は永遠に可愛らしい。

 

 これはわたしの持論でありますが、人は、一人では生きていけない。一人では生きていけない人たちが集まって、世界が構成されている。その世界には優しい花が咲いていて、時に天は雨を降らしわたしたちの身体を濡らそうとする。冷たいね、人々は身体を震わせ涙を流している。そこに鮮やかな御日様がこんにちは、光合成で優しい花が笑ってる。生きていく為には冷たい雨と御日様が大切。涙を流したり、笑顔を浮かべたりする瞬間が、わたしたちには必要なのだった。一人では感情の幅が限られる。喜怒哀楽の境界線が薄らいでいくのです。その結果、なんにも感じなくなる、無表情。それが他の誰かと関わることによって、新たに見つかる感情がある。人間としての幅が広くなる。そのような実感、そのような心の動きを、大切に育みながら生きていきたい。わたしはそのように考えています。

 

 社会のなかに身を置く事、コミュニケーションそのものがわたしの存在証明。人との関わり合いが「私」を生きた証なのです。きっと、いなくなった後は忘れてしまう。記憶の中にいるその人が少しずつ薄まっていく。生きている中である時ふと思い出す、過去の会話、ふとした表情、風に漂うその人の香り。もうその人のことはほとんど忘れてしまったけれど、そのすべて何もかもを忘れてしまった訳ではなく、断片的に存在しているものがある。忘れたくても忘れられない、そんな生き方、そんな人物、そんな限りある関わり合い。やっぱりわたしは人のことが好きで、誰かと一緒に過ごすことが好きで、会話することが好き。関わり合うことで、その人のなかに少量のわたしが残ってくれれば、この先安心していなくなることができる。たくさん会って、たくさん話して、たくさん書いて。わたしが生きた証、生きている証をほんの少しずつ手放して。冷たいね、なんて言いながら、優しい花を咲かせたい。