[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0421 在りたいわたしのつくり方

 

「俺はキムタクにはなれないが、キムタクも俺になることはできない」なんて軽快な一文をネット上で見かけた。クスっとなるようなジョーク、それと共に「なるほど」と考えさせられる部分があった。

 

 わたしはなにかと憧れやすい性質で、これまでの人生ずっと誰かに憧れてきたように思う。幼き頃はよく一緒に遊んでくれた年上のお兄ちゃんたちに、学生時代は麗しい容姿のアーティストに、大人になってからはとある文筆家に。良い意味でも悪い意味でも特定の”誰か”の影響を強く受けやすいタイプで、思い返せば事あるごとに人格が入れ替わっていたような感覚がある。その人になりたい、という気持ちが強くて、兎にも角にも模倣の日々。少しでも近づけた気がした時には嬉しくて満足感、きっと他の誰かになりたかった。知らず知らずのうちに、ずっと自分のことをないがしろにしていたのだった。

 

「個性っていうのは、無意識の中で生まれるものなんだよ。例えば、古典芸能なんかで、踊りのお師匠さんがいるでしょう。弟子たちは師匠の踊りを一生懸命マネしようとするんだけど、そうしても完璧にコピーできなくて、自分のクセのようなものが出てしまう。それこそが、個性なんだと思う」

 

養老孟司さんの一言

 

 ずっと誰かの模倣を繰り返してきた実感として、確信を得たことが一つある。それは「結局のところ人間は自分以外の何者にもなれない」ということ。上記の引用文が物語っているように、誰かの踊りを”完璧”に模倣することは不可能なんである。そういうものはAIやらインターネット技術に任せておいて、我々人間は人間らしいこと、即ち個性を育んでいけばよろしい。そして、個性という分野は今のところAIの不可侵領域らしいのだ。わたしたち人間は、人間なのだ。当たり前のことだけれど、そこには人の数だけ個性がある。「誰かになりたい」という儚い憧れよりも、「こんな自分になりたい」を磨いていければもっともっとわたし達は素敵になれる。

 

 そういうこと、本質に気がついたその瞬間から、抱いていた全ての憧れが消失してしまった。誰かのことを素敵だと思うこと、魅力的な部分を模倣することは大事だと思う。けれども、いつまで経ってもその誰かになることはできないままで、結局は「わたし」としてこの先を生きていくことになる。その上で、どのような自分で在りたいか。一週間後、一か月後、一年後、自分はどんな在り方をしていたいのか。いまもずっと考えている。お金持ちになって貧しさを忘却したい、モテモテになってしまいたい、自分が好きなことを仕事にしたい、温かい家庭を築き上げたい、優しくしたい、愛されたい。自分自身が望む姿であればなんだっていい。それは自分の頭のなかにしか存在しないものだから、誰かから口出しされることはない。だから安心して、自分の望む姿を思い浮かべてみて。

 

 自分の在りたい姿が明確になれば、それは一つの強い指針となる。他人の言動にイラっとしても「理想のわたしはこんなことで怒るかしら?」と考えれば、すこしだけ穏やかさを取り戻せるかもしれない。お金や時間がなかったとしても、それを言い訳にせず優しさを配ることができるかもしれない。人は、理想と現実とのギャップを感じたときに大きなストレスを感じるそうです。だとすればわたしは、そこにある絶望を受け容れて、理想と現実との間の大きな溝を埋めていきたい。そのように思うのです。本を読んで、文章を書いて、たくさんの人と関わっている。そんな理想の在り方を、わたしは叶えていきたいのです。そして、今度はあなた自身の在り方を聞かせてほしい。どのように今日を生きていますか? いなくなりたいと思った時は、こっそりわたしに教えてください。