[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.090 空に吸い込まれ消えてゆく

 

 

 何かを作り上げて世に発信するということは、「私はここにいる」と叫ぶことだと思います。

 

 

 何故私たちは叫ぶのか、それは誰かに見つけてもらいたいからではないでしょうか。もう一人きりで踊り続けることにも飽いた人間が、ある日突然声を上げる。それは偶然かもしれないし、それこそが必然だったのかもしれない。

 

 母が母として存在出来るのは子供が存在しているからであって、子が子として存在出来るのは母がこの世に産み落としたからである。そんな当たり前に思える相関関係を私は作り上げたい。

 

 母子を作品に置き換える。私が日々文章を生み出しているからこそ私は私として存在することが出来ている。私が生み出した文章は私を必要不可欠とする。筆を止めれば私は私という存在の形を保つことが出来ないし、私が存在しなければそれ以上言葉が紡がれることもない。

 

 そんな関係性に憧れているから、今日も書いています。どっちが欠けても崩れてしまうような絶妙バランスで生きている感覚は、思っていた以上に心に良い刺激となっていて、心地良い。

 

 「それなら別に叫ばなくてもいいんじゃないの?」、ということではなくて、叫ぶからこそ作り続けることが出来るんだと思ってる。”たくさんの人に見て欲しい”という気持ちはもちろんのこと、”認められたい”、”尊敬されたい”、”すごいと言ってもらいたい”、みたいな健気な承認欲が動機でも構わない。とにかく叫ぶこと、叫び方がわからないのなら、叫ぶ練習から始めてみること。

 

 例えば、無名の誰かが生み出した作品は、ほとんどの人間にとって手に取る価値もない駄作です。まだ駄作と認識してもらえれば良い方で、大抵の場合は誰の目にも止まることなく作品が埋もれていく。作者は落ち込んでしまうけれど、そこで作ることをやめてしまっては今後何かが変わることなど有り得ない。毎日毎日、駄作を生み出し続ける日々。そしてその駄作を掲げながら空へと叫ぶ、それでもその声は誰の鼓膜にも響かない。

 

 創意工夫を凝らしながら作り、叫ぶことを繰り返す内に、「いいと思う」と言ってくれる人が突然現れたりする。それは知り合いかもしれないし、顔も名前も知らない人かもしれない。その瞬間に、その駄作は駄作ではなくなり、立派な一作品として完成する。自分の寿命を削って作り上げたものを、誰かに見てもらえたり触れてもらえたりすることはとても嬉しく思う。僕はその一瞬の為に、その他多くの時間を費やしているのかもしれない。

 

 ただ一人きり、自分一人だけでは輪を作ることはできない。他の誰かと手と手を取り合った時に始めて一つの輪が現れる。殻に閉じこもることは簡単で、声を上げることは難しい。それを続けることはもっと難しい。だからこそ叫ぶのです、叫び続けるのです。声を上げなければ、誰にも見つけてもらえない。

 

 

 誰か一人が読んでくれている、

 それだけで私は私を続けることが出来るから

 これからも私という存在を叫び続けたい

 

 声が枯れ、喉がぶっ壊れてしまうその時まで。