[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.087 静寂に帰す、

 

 

愛してくれなんてね 今更

 

「絶体絶命 / Cö shu Nie」

 

 

 最近、自分の家に早く帰りたくて仕方がない。

 

 以前まで何も思い入れが無かった自宅のことを、ここまで必要とするようになるとは思ってもいなかった。ただの荷物置き場、倉庫のように思っていた場所が、現在では何よりも心が休まる場所になっている。

 

 帰宅した際には「ただいま」と発するようになった。一人暮らし、ペットすら飼っていない私は、これまでは無言のまま玄関先で靴を脱いでいたのだけれど、気が付けば家に対して話しかけるようになっていた。

 

「今日もめっちゃ暑かったわー」

「馬鹿みたいな人混み、やっと心休まる」

マクドマクド、早よ風呂入ってビール飲みたい!」

 

 みたいなことを呟いても(時には叫ぶ)、勿論のことリアクションなどありはしない。それでも、わたしの家は静かに頷きながらその呟きを吸収してくれているような、そんな感じがある。

 

 もしかすると、ちょっと頭がおかしくなってしまったのかもしれない。無機物に対して、空間に対して呼吸だったり息遣いを感じるというか、音は無くとも寄り添ってくれているような感じがする。子が母に甘えるように、私は”わたしの家”という空間に甘えている。たとえ私がどんな悪行を犯したとしても、自宅は両手を広げて迎え入れてくれる。「ただいま」という嘆きを聞き入れてくれる。わたしの存在を全肯定してくれる。どれだけ落ちぶれても、最低でも、そこに善し悪しの物差しを挟み込まないでいてくれる。

 

 

 リモートワークが終了し、本格的な会社出勤が始まった。その為、以前よりも自宅で過ごす時間が大幅に削減されてしまった。リモートワークがきっかけとなり自宅の素晴らしさに気が付いて、リモートワークの終了と共に自宅の愛おしさが増していく。”離れて初めて存在の重要性に気が付く”、それは人も空間も変わらないのかもしれない。

 

 特に意識はしていないけれど、休日は友人や知り合いと会うことが多い。というよりも多くなった(以前までが人と会わな過ぎた)。誰かと話しをすると刺激を受けることになるし、大抵の場合はその刺激が良い方向に働くことが多い。だから、人と会えることは有り難いことだと思っている。けれども、どのような刺激でも集中して受け取り続けると疲労が嵩む。そんな疲労感を拭ってくれるのが”自宅”という帰る場所なんだ。帰る場所があるからこそ、表へ出ていくことが出来る。帰る場所があるからこそ、わたし達は動き続けることが出来る。

 

 時には、一日を通して何も予定がない休日がある。そんな日は少しばかり得をしたような気になる。丸一日自宅で過ごすことが出来るなんて、最高でしかない。人間は暇を持て余した時に不安感情を生産したり増殖させたりする生き物なので、そういった予定のない一日の為にやりたいことを普段からリストアップしている。

 

・見たかった映画・動画を観る

・まだ未読の本を一日で読破する

・鍋料理を作る

・調べ事にとことん時間を費やす

・頭の中にある考えをノートに書き出して形にする

・上品な猫のように昼寝をする

 

 すべて家の中だけで完結できるし、ただボーっとするだけの時間を作らないことで充実感が生まれ、心の安寧が保たれる。ちょっと贅沢をしたい日にはマクドナルドをデリバリーして、優雅な夜を過ごしてみるのも好い。そうやって静かな休日を過ごすことが出来るのも、安心できる家に包まれているおかげだ。

 

 だからこそ、予定があっても予定がなくても、予定が無くなったとしても、全く動じることがなくなった。予定が入っている日には人と会って話すことが出来るし、予定が入っていない日は自宅で好きなことだけに時間を使える。意識的に”暇”な時間を無くすことによって、程度の差はあれども悩んでいる時間が少なくなる。悩みが減ると、自然と行動が増える。あまりにも急激に行動量を増やすとそれはそれで心の負担になってしまうので、時間的余白は適宜確保する。そうやって、常にご機嫌な自分を保てると、自分自身の愛し方みたいなものが少しずつ見えてくる。

 

 家にひとりでいると、様々な声が聞こえてくる。それは自分の内側から発生している囁きみたいなもので、その微かな声量に耳を傾け続けていると思わぬ自分に出会うことがある。自分でさえも知らなかった自分自身が見えてくる。その発見を現実に落とし込むことによって、生活に微細な変化が現れる。そのようにして、少しずつ、少しずつ人間は変わっていくことが出来る。そのきっかけを与えてくれるのも”自宅”という空間であり、一部始終を見守り続けてくれる役割も兼ね備えている。その無言の眼差しからは、母性に等しい温もりを感じる。

 

 

 そうやって、今日も自宅に包まれながら文章を書いている。色々な場所で書くことがあるけれど、一番集中できて、長時間取り組むことが出来たのが自宅だった。文章を書くには、途轍もない集中力とある程度のまとまった時間、そして何よりも整った執筆環境が必要だと考えている。私は、自宅でないと自分の文章が書けない。そう言い切れるほどに、環境によって出来栄えが左右されてしまう。

 

 自宅を好きになったから文章を書き始めたのか、文章を書き始めたから自宅を好きになったのか、そんなことはどちらでもいいけれど、間違いなく言えるのは、「私はそのどちらをも愛している」ということです。

 

 

 いつも側にいてくれてありがとう。

 そして、これからもよろしく頼むね。