[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.088 夏の抜け殻

 

 朝、目覚めるとベッドを飛び出しカーテンと窓を開ける。耳を劈く蝉の声を聞き流しながら、まだしばらく夏が続くことに対してうんざりとしてしまう。

 

 

 蝉、夏の間はどこに行っても鳴き声が聞こえてくる。限りなく緑の少ない都会でもその声は聞こえてくる。種類によって鳴き方が変わるけど、どれを切り取っても一発で蝉だと理解できる不思議さがある。

 

 あの小さな身体から延々と繰り出される轟音。一体、蝉は何の為に鳴き続けるのだろうか。私にはどうしても彼らが泣き叫んでいるようにしか聞こえない。生の短さを、嘆き、苦しんでいるようにしか、心が解釈をしてくれない。

 

 勝手に泣いている分には大いに結構だけれど、頼むから私の側には近づかないでもらいたい。単純に恐ろしく、私の本能が全力で拒否している感覚がある。突拍子もなく羽をジジジジ鳴らすことも控えてほしい。ただただ心臓に悪い。遠目でその声を聞いているだけで充分だから、どうか私を脅かさないでくれないか。

 

 あんた達にとっても我々人間は恐ろしいだろう。決して長くは生きられないだろうから、ここは一時停戦協定を結ぼう。あんた達は私になるべく近づかない、わたしはあんた達に絶対近づかない。単純明快、しかし何よりも効果的な策略だろう。間違えても、マンションの廊下に転がっているなんてことにはならないでくれ。既に亡き骸かと思いきや、横切る瞬間に鳴き声と共に羽根をばたつかせ猛威を奮わないでおくれよ。そんなことされてしまうと、家に帰ることが出来なくなってしまうからさ。

 

 幼少の頃は平気で触れていたことが本当に信じられない。よく祖父と一緒に近所の公園へ蝉を捕まえに行った記憶がある。虫篭から溢れ出んばかりに大量の蝉を押し込み、満足気な表情を浮かべていた。「めっちゃ籠うるさい。笑」みたいなことを思っていた気がする。祖父ちゃんはよく蝉におしっこを浴びせられていた。いま考えると本当に有り得ない。ただ、「じいちゃんはおしっこをかけられている姿がとてもよく似合うなぁ」と思ったこと、その思いは現在でも変わらないままでいる。

 

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 中学生時代、夜になると遅くまで外に繰り出していた。と言っても近所を自転車で徘徊するだけの散歩に近しいものだが、私はその時間が好きだった。

 

 そんなある日の徘徊中、信号待ちをしていると、道路沿いに似つかわしくない、まさに文字通りの大樹があった。

 

 その場所はこれまで何度も通ってきたし、特に意識することもなかったけど、「何でこの場所に?」と疑問を抱くほどに巨大で、そして木の幹がとてつもなく太い。「一体、何人の人間が手を繋ぎ合えば、一つの輪として幹を囲むことが出来るんだろう?」なんてことを、大樹を眺めながらボーっと考えていると、ふと意識が地面へと向いた。

 

 私は目を凝らした。たくさんの蠢く影が、車のヘッドライトに照らされ露わとなる。そこには、蝉の幼虫が大量にひっくり返っていた。生きている、足をモゾモゾと動かしている、それも大量に。その悍ましい光景に、瞬時に血の気が引いていく様を実感した。

 

 しかし、しばらく眺めているとその悍ましさにも慣れてくるもので、次第にわたしは地面にひっくり返る彼彼女達のことを不憫に思うようになった。

 

 蝉は、約七年間を土の中で過ごし、地上へ這い出て成虫へと羽化する。無事成虫になれたとしても、ほとんどの個体は一週間程しか生きることが出来ない。

 

 羽化する為には木(もしくは近しい何か)にとまる必要がある。わたしの眼前で蠢く幼虫たちは、成虫になる為に地上へ這い出たものの、大樹を登る途中で落っこちてしまったのだろう。運悪く背中から着地してしまった為、その短く生えた数本の足では体勢を整えることが出来ないでいる。七年間も地面の中を一人きりで生き抜いてきたのに、羽根を広げることなく生を終える。なんと脆いのだろう。なんと、繊細なのだろうと思った。

 

 そのまま放っておけば、眼前の幼虫たちはもれなく全て絶命する。気が付けば自転車を停めて、わたしは地面へと近づいていた。中学生に入った段階でもう蝉には触れなくなっていたので、側に落ちていた長さがある木の枝を徐に手にとった。手始めに一匹、木の枝を使い幼虫をひっくり返してやった。すると、体勢を持ち直した彼は、一直線に大樹へと歩みを進めていった。再度、登木に挑戦するのだ。"ここで会ったのも何かの縁"と言うが、似たような感覚で当時のわたしは使命感のようなものを感じていた。私がやらねば、誰が幼虫達を救うのだろう。一匹、又一匹と木の枝を使いひっくり返した。皆一様に大樹へと歩みを進める。

 

 中には、途中で体力が尽きたのか、大樹の麓でグッタリとしている個体もちらほらと見受けられた。そのまま生き絶えたとしても、ひっくり返ったまま生を終えるよりは幾らかマシだろうと思っていた。当時のわたしは、幼虫を救うことが、それこそが正しい行為だと思っていた。

 

 しかし、果たして本当にそれが正しかったのかと現在のわたしは思っている。先ず、大前提として私のとった行動は自然の摂理に反している。弱い個体は淘汰され、より強い個体が後世に遺伝子を受け継いでいく。成虫になる過程で”失敗”してしまった個体は、そのまま絶えた方がよかったのかもしれない。その方が自然的だと思う。

 

 何よりも、過去の私自身が偽善的だ。そんな身勝手な行動で救世主に成り上がったように錯覚して、気持ち良くなっていたのだろう。"良い行いをすると気持ちが良い"、そう思い込むこと信じ込むことでドーパミンを自己生産していたのだろう。幼き青年に対してこう投げ掛けたい、「何なら悪いことする方がもっと気持ち良いぜ」と。

 

 

 間違いなく、わたしは蝉の運命を変えてしまった。たった一週間かもしれない、それでも成虫となり空を味わうことが出来る、思う存分鳴き声を響かせることが出来る。もしかすると、その劣等遺伝子を後世へと託せたかもしれない。もしも”あの世”みたいな場所が存在するならば、私は間違いなく地獄行きだろう。それでもいい、あの時君たちが少しでも満足してくれたのならば、私は喜んで罰を引き受けよう。

 

 

 大人になっても、まだまだ偽善的な態度が抜けきらないようです。

 

 偽善的な人生も、そこまで悪くないかもしれない。

 善い意味でも、悪い意味でもね。