吐瀉、吐瀉、吐瀉物が世界に露呈します。
書いているだけで、心臓の面積が微かに小さくなるような気がするわ。すごい前向きな文章を書いてみたらどうなるのか、という疑問。興味本位から認めた文章は油不足のギアチェーンのようにぎこちない動きをしている。良い天気の日は紫外線に肌細胞の一つ一つを丁寧に殺害されているような感覚があるし、アイロンとかどうでもいい私は黒シャツが着たい、そもそも全くもって前向きではない、寧ろ後ろ向きで不器用ながらも進む方法をひねり出しているし、その過程を楽しむことなんて出来るはずがないだろ。人生楽しい!みたいな人間を否定するつもりはない、けれど私はそのような人間を信頼することは出来ない。そして、常に地面を確認しながら歩いている。決して転ぶことのないように、躓くことのないように。朝、昼、夜、すべて一人で済ませる食事は、食事というよりも餌といった方が正しいような気がして、もっと言えば餌なんかよりも”本当の意味での単調的な栄養摂取”という表現が一番しっくりくる。朝はフルーツ→知るか/昼は友達とランチ→食中毒に侵されろ/夜は家族と食卓を囲む→そのまま燃えてしまえ、といった具合に歪な偏りをした感想が脳内にふわふわと浮かび上がります。ランニングやストレッチ等の運動習慣は確かに効果的かもしれない、けれどもそれを世に向けて発信する必要はないだろ。休日のショッピングは勿論一人で、そしてショッピングと言わず買い物と表現しろ。悩みがあっても喉から先に進ませることが難しい場合がほとんどで、自分自身のことを話すのが苦手だから相手の話しを聞くことしか出来ない。喧嘩をする機会が無いほどに感じられない繋がり、事実上の絶縁。恋人に支えを期待している時点でその恋愛はいずれ破綻する。こっちが支えてやる、みたいな考えも相手にとって負担になる場合、単純に空回りする場合があるので控えた方が吉なのでは。これは恋人だけではなく人間関係全般に於いて言えることですが、一番の処方箋は期待しないことだと思っています。端から期待していなければ、大抵のことでは自分の感情が揺さぶられることがない。しかし、恋愛感情というのは感情の乱高下によって形成されるものです。だからこそ、未だにわたしは片想いを達成することが出来ないのかもしれない。開かれない人生、閉じているのは自分自身かもしれないけど、かけがえのない瞬間も楽しくご機嫌に過ごすことも、わたしにとっては遥か遠い過去の出来事の様に感じる。身体にも心にも毒を浴びせ続けているわたしにヤケ酒をする資格は無い。だから冷静に、日々アルコールの海に浸っている。海では泳ぐことが出来ない私でも、アルコールの中では泳ぎ回ることが出来る。勿論、わたしだって一人は寂しいと感じる。けれども、求める恋人の姿は勿論、名前さえ知らないから対象の求め方がわからない。ありのままを見せすぎているから、もう見せる弱さも残っていない。不安な自分も自身の一部というよりも、もはや自分が不安の一部分なのでは、と思うようになった。深呼吸で世界は変わらないし、もう不安と向き合いたくない、そんなことで得られる報酬が魅力だけならば、そんな魅力はいらないからもう少しだけ不安の配布量を削減して下さい。
公園のベンチに腰を掛け、「下らねぇなぁ」と空に嘆き、ストロングゼロを喉に流し込む。一体何処の誰に何が届くというのだろうか。
了