[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0444 いっそ死ぬのならその後で、

 

「人はわたしのことを美しいと言う、魅力的だという、愛しているという」

 

「人はわたしのことを醜いと言う、愚かだという、死んでしまえという」

 

 そのどちらを信じればいいのでしょうか? その思考こそが一番の過ち、肯定も否定も、そのどちらもが真実なのだ。当人にとっては。人は信じたいものを信じる生き物、だとすれば、わたしたちが本当に信じる者、信じられる者は、自分自身に限られた。他に誰がいるのだろう? 自分以外の一体何物が、わたしのすべてを理解できるというのだろうか。

 

 それなのに。自分自身と向き合うことから逃げている。それも日常、いつまで続くの、そんな日常。生きているだけで美しいのだ。それでもなにかが物足りなかった。ずっとずっと夢から目を逸らしてばかり、わたしは自分自身を遠ざけてばっかり。言い訳の中が心地良くて、自分のことを正当化、それで満足しているのだと思い込み。そんな訳ないでしょう、このままでいいなんて、思えるはずがなかったでしょう。

 

 一生懸命に日々を生きなさい。それは一体だれの為に? わたしの為に、自分自身の為に。あっという間に終わってしまうのよ、あなたも、わたしも。日々を惰性で生きることも、当人が納得していれば、それはそれで素晴らしい。でもね、自分に嘘を吐くことだけは、それだけはしないでほしい。ずっと嘘つきだった、抑圧ばかりして、自分のことをどこまでも虐めて、理想の自分を壊そうとしていました。それも無意識に、理想のわたしは幾度となく殺されました。どうしてそんなことするの? 理解が無意識に追いつかない、頭よりも身体が先に動くものだから、わたしは自分のことがわからなかった。そのまま死ぬのだと思っていた、「わたしは自死を望んでいる」、そう思い込んでいました。

 

「いっそ死ぬのならその前に、」

 

 立ち止まって考えてみる。世の常識とか、周囲の意見とか、人間としての建前とか、そんなものは全部一旦ゴミ箱に棄てて、在るがままの心で、考えてみる。「死ね」と言ってばかりいた雑音は、「愛されたい」の裏返しであった。そして、もう一つ「表現したい」という声が胸中に響き渡る。言葉を使って、わたしは自分の感性を表現したかったのだ。やっぱり自分は書くことが好きなのだった。このブログを毎日更新するようになって、随分と心が落ち着いた実感がある。時には沈んでしまう時もあるけれど、浮き上がることがわかっているから、抗わないで済むようになった。それもこれも、書いているおかげなのだ。読んでくれる方がいるおかげなのだ。大嫌いだった自分自身、書いている間だけは自分のことを好きでいられた、生きていられた。

 

 いまはもう少し、表現の幅を広げたいと考えています。考えているだけではなにも変わらないので、行動に移します。文章の延長上で、音楽なんかもやったりします。「人生マジでおもんないわ」と思いながらここまで生きてきたのだけれど、おもんなくしてるのは間違いなく自分自身で、それならば面白くしてしまえばよろしい。単純な話しだった、視点が変わればいとも簡単に行動が変わる。これからのわたしは、わたし自身を表現します。いつまで続けるかわからないこのブログだけれど、遺書になるのはもう少しだけ先になりそうです。周りになんて言われようと、非常識だと言われようとも、わたしはわたしの想いを、直感を、第一優先に生きます。その生き方に共感してくれる方、そんな優しさたちと缶ビール片手に、のんびり広い草原を歩いていければ、なんて。