[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0191 コップに入った水の鼓動

 

 「人生百年時代」

 

 いつになく気分が思い夜には、逃げ場所などどこにもないような気がする。医療の発達と共に人間の寿命も緩やかに伸びていって、百歳まで生きることがデフォルトになる将来がやってくる。こういう話しを聞くと正直うんざりしてしまう。これまでの過去の上を泳いできた今この瞬間でさえもう体力が尽きそうなのに、これがまだ何十年も続くと考えると恐ろしさ極まる。

 

 人生ほどほどに楽しんだし、ほどほどに愛されたり愛したりしてきたから、もう充分に満足している。今日心臓が止まっても構わない、そこには寸分の後悔も介在しない。早急に死にたいって訳じゃないんだけど、もう生きていたくないんだよな。これは精神を病んでるとかそういう次元の話しではなくて、もっと奥の深い部分に根付いた願いみたいなもの。皆それぞれ違う形の願いがあると思うのよ、もっと長生きしたい、家族を残して死にたくない、人生が辛いから死にたい、最早そういうことすら考えたくないという人もいる。十人十色の艶やかな願いと向き合いながら、わたし達は自分で決断していくしかない。

 

 ”今日を生きる”という決断を実行するということは、”今日は死なない”という決断をすることでもある。そして、生きる上でちょっぴり死んでしまう日もあるだろう。何となくしんどいから今日は仕事を休んじゃおうとか、身体が重いから一日中ベッドの上でゴロゴロしていようとか。世間はそれをあたかも悪いことのように”怠惰”という表現をするかもしれないけれど、当人が下した決断に対してあまりに失礼が過ぎると思う。生命が絶たれれば、ちょっとだけ生きるなんてことは叶わない。生きているからこそ疑似的な死を味わえるのであって、怠惰と揶揄される行動は時として当人の中で大きな力を発揮する。

 

 そうやってこれから何年も騙し騙し日常を重ねていき見事寿命を全うするのだろうか。少し考えるだけで、頭の中に吐瀉物の大洪水が発生する。気持ち悪い、気持ち悪りぃ。”人生に向き合わない”というのも一種の向き合い方だと思っていて、わたしはそんな感じで緩やかに、「何もかもに飽きてしまった時には消えてしまおう」という諦念を心に留めている。きっと、わたしにはそれが一番合っていて、そうすることでしか生きられなかった。コップの中にはまだ水が半分も残っていて、それを誰かが飲むことも許せず、蒸発を待つことも出来ない私は、コップを床に叩きつけるしかなかった。そうすることでしか、わたしは形を保てなかった。

 

 

 もう何も聞こえないし、何も届かないよ。君の鮮やかな後ろ姿だけが、瞼の裏に沁みついて消えないままでいる。