[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0222 頑張らんでええ

 

上手く言えないけど、気持ちが落ち着いている。

 

 その代償として日常から刺激が消えてしまった。その点においては好きなだけ酔っ払って一人きりでとち狂っていた以前の方が、幾らか楽しかったように感じる。人生において刺激は大事だ、けれども必須という訳ではない。べつに無くても生きていけるし、一寸の狂いなく時間は正常に過ぎていく。ただ緩やかに現在が次々と過去に変わる、それだけの当たり前が胸を締め付けているけれど、その痛みに快を見い出しているわたしがいる。

 

 内なる想いから刺激を創造すること。勝手にスリリングを味わって、勝手に楽しくなっちゃえばいい。

 

 振り返れば、真面目に生きてばかりの自分がいた。「こうでなければならない」の呪縛に縋りついてばかりいた。自分に対して同情はしないよ、『よく頑張った』とだけ伝えてやりたい。だからこそ、もう頑張らなくていいんじゃないか。頑張れば頑張るほどに”頑張らなければならないこと”ばかりが増えていく。今となってわかることだけれど、やっぱりこの世の中はクソだ。それも楽観的な生き方が難しいほどに泥まみれだ。そんな中でも綺麗であろうとするから、ご立派な善人神話を崇拝するから、理想とかけ離れた現実を目の当たりにした時に落胆する。泥まみれの世の中、人間に対する性悪説、どれもこれも最初から期待しないだけの保守的思考。それでいい、俺たちは生まれた瞬間から体液だらけで汚れちまってる、大抵の人間は自分にしか興味がないし他人に優しくしない。

 

 だからこそ、綺麗なものを見た時には心が癒される。だからこそ、優しくされた時には温もりを感じ取れる。人生は限りなくシンプルだ。「何かを与えてもらうには、先ずは自分から与えること」この法則が真実なのだとすれば、もうわたし達は死ぬまで与え続けるしかないでしょう。だって、どうしても与えられたいから。見栄や強がりを言うのは止めた、わたしは優しい温もりを与えられたいのです。

 

 最近、『わたしは大切なひとに何を与えられるだろう』なんてことを考えています。時間、お金、物質などはどうしても限りがある。そこで思いついたのが、”ご機嫌に生きること”でした。感情レベルは周囲の方々に伝染するから、楽しそうにしている人がいればその空間には”楽しさ”が充満します。良い例として、笑顔の赤ちゃんが一人いると、周囲の人にも自然とその笑顔が伝染する。わたしはもう笑顔の赤ちゃんにはなれないけれど、ご機嫌な大人でいることは出来るんじゃないか。

 

 世の中を複雑な角度から見つめて難解な解釈を続けていると、苦しくなって不機嫌になってしまう。嘆けば嘆くほど、もがけばもがくほどに深くまで沈んでしまう。そんな人間の傍にいたいと思える聖人は数少ない。だからもう、考えることを意識的に控えました。わたしはもう少し適当に生きてもいい。何も達成できなくても、一人きりでも、何だっていいじゃない。時間の流れに取り残されたって、それでいいじゃない。『僕はこれからを適当に生きる』空っぽの部屋で呟きました。それだけで幾らか気持ちが楽になった気がする、次第に強張った表情が緩んでいく。

 

 マイペースが過ぎると揶揄される私だからこそ、表現できる生き方があるんじゃないかと思うんです。別に今すぐに死んだって構わんけど、もうちょっとだけ生きてみてもいいかなって。どっちつかずでもいいし、特定の何かに傾倒する必要性は全く無い。アホみたいに笑いながら、のほほんと生きていたい。そんな人間が存在していることを、頭の片隅に置いてやって下さい。「そう言えばこんな愚か者もおったなぁ」と思い出してもらえればそれが何よりの本望です。その時のあなたに少しでも笑顔が浮かんでいれば、最高だなぁ。

 

 

 そんな愚かな夢物語を、これからも書き続けます。