[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0455 虚空を見つめる

 

 ある日のこと、通勤で利用する電車内を見渡してみると、9割の人間が首の角度45℃をキープしていた。その割合にはわたし自身も含まれており、大抵の方がスマートフォンに眼球を奪われている。その光景が異常に感じた、少なくともわたしのなかにある感性が警笛を鳴らしている。どうみても自然ではない。いや、そもそも電車とか通勤とか、そういったものが不自然であるのかもしれないけれど、ここで言いたいのは物質とか行為としてのことではなく、わたしの視野に映る光景としての不自然性。このままでいいのか人間よ。少しだけ人間に対して失望したわたしは、そっとスマートフォンをポケットにしまった。

 

 ここ最近、電車内で「なにもしないこと」に取り組んでいます。”取り組み”なんて言うと大仰ですが、本当にただなにもしないだけ。スマートフォンはもちろんのこと、本を読むでもなく、音楽を聴くでもなく、人間観察をする訳でもない。「なにもしないこと」に対して集中する。これはいわば一種のマインドフルネスだと思ってる。行きの電車はスマートフォンでブログを編集したり、LINEで連絡を返したり、スケジューリングをしたり、何やらかんやらしている間に目的地点へ到着。わたしは性質的に朝の頭が一番明快であるからして、この行動には納得がいっている。寧ろ、この時間以外はほとんどスマートフォンを見ない、触らない。その上で大事になってくるのが、帰りの電車内での過ごし方。一日働いた後にはやっぱり色々なことを経ている訳であって、何の問題もなくハッピーに終わったような一日でも、それなりに頭の中が疲れている。身体はまだまだ元気なのに、意思決定の繰り返しによって随分と脳が疲弊している感覚。そんな頭でなにを見てもなにを聞いても、全然頭に入ってこないのだった。以前は本を読んだりしていたけれど、15分程度の微妙な電車時間、中途半端に読み進めることもこれまたストレスである。ここでインターネット検索なんてしようものなら、情報の波に全身が攫われてしまう。よくない情報が心を小突くようで痛々しい。文章を書こうとしても、疲れた頭では思うように筆が進まない。

 

 それならばいっそ、と思い立つ。なにもしなければいいんじゃないか。ただボーっとしていればいいんじゃないか。メトロ、車窓が意味を果たさないほど移り変わりの無い風景。暗闇のなか運ばれるわたしたち、スクリーンに釘付けの現代人。もうなんか、疲れちゃった。どうでもいいんではなかろうか。ただわたし達は、空白が恐ろしいだけだった。辺りを見渡せばご老人、何もせずただ静かに座っていらっしゃる。その姿がなんだかとても美しかった。人間のあるべき姿を見たような気がした。「わたしもあぁなりたい」、心が素直に叫んでいた。道を歩いている時、信号待ちをしている時、会社のデスクに座っている時、家で食事をしている時、わたしはふとした瞬間に空を見上げる癖があるみたい。室内ではそれが虚空を見つめているように映るらしい。これもまた首の角度45℃なんである。下を向いているか、上を向いているか、ただそれだけの違いで随分と呼吸が楽になる。同じ様に、電車内でも天井付近に視線を移してみる。なんだか少しだけ気が晴れる。疲れた頭が休まっている感じがある。ただそれだけのことなのに、発車から到着までの時間がものすごく長く感じるのです。スマートフォンを見ていればあっという間なのに、ただなにもしていないだけで多くの時間を獲得したような、一種のお得感と手持ち無沙汰がせめぎ合いの攻防を。なにもしないこと、これがわたしのマイブーム。