[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0377 スマホがなかった夜と空

 

 眼精疲労が甚だしく、日常がどんより霞んでいる。こういう時に考えられるのは、スクリーンの見過ぎとアルコールの飲み過ぎ、実にシンプルである。乱れた生活に警笛を鳴らしてくれる人体は有り難いものだけど、いかんせん自分自身を見つめ直さなければ視野が痛いばかりだ。

 

 スクリーンを見なければこのブログが書けないジレンマ、なるべくブラインドタッチで書き進めていく。油断するとすぐこうなる、五感が敏感で弱弱しい。目に大きく異常が現れたのは昨年で、その時は本当に絶望して大いに焦ったけれど、一年も経てばそういうことにもある程度耐性がついているものだ。「またきたか」という心の重さはあるけども、まぁ安静にしておれば快復することを理解している。こうやって人間は強くなっていくのかねぇ、眼球は弱くなる一方だけれど。

 

 こうなるたびに、デジタルデバイスとの付き合い方を考えさせられる。日常的にスマートフォン、あんまり触らないのだけど、仕事柄PCとはにらめっこ、映像作品はタブレットで見たりしている。周囲を見渡すとスマホとかテレビとか、もっと長時間見ている人が多いんだけど、眼球、痛くならないのだろうか。純粋に疑問である、開眼していることが辛くなること、目を閉じたままジッとしていたい気持ちになることはないのかな。照明、日光、ブルーライト、色彩、自分の目が痛くなる状況を説明しても、理解はされても共感を得ることはできなかった。

 

 全然スマホ見ないよね、とか、ちゃんと返事してもらわなきゃ困る、とか、そういうこと言われる機会が多いんだけど、何となく心がスマホを拒否している部分と、単に眼球が痛い部分が入り混じり、結果的にスマートフォン、どうでもいいのであった。ウォレット機能、音楽再生機能、通話機能、この3つがあれば事足りる。ふと思い立ってスマートフォンを長々と眺めてみると、なんかめっちゃ便利だなと思った。過剰、すこし便利過ぎやしませんか? こんな薄っぺらい板一枚でなんでも完結する世の中にすこしだけ恐怖を感じてしまう。

 

 なんて言いつつも、Netflixやらkindleやらをタブレットで長時間見てしまうのだけれど。タブレットもいわば大きなスマートフォン、持ち運びには不便かもしれないけど、人間を夢中にさせるには最適な形状をしていると思うのだ。我々は、テクノロジーから逃れることなど出来ないのだろうか。

 

 夜、皆さんなにをして過ごされていますか? チャットツールで連絡を取り合っていますか、情報をインプットしていますか、アプリゲームに、SNSに夢中になっていますか。この世にスマートフォンやらパソコンなどのデジタルツールが無かった時代、一体人々はどうやって夜を過ごしていたんだろうか。家族は会話を楽しみながら食事を行っただろうか、恋人たちは相手の温度だけを追求しただろうか、ひとり者は自分と向き合い続けただろうか。わたしが産まれたときにはかろうじてPCが普及し始めていて、物心がばっちりついた時にはガラケーが世に普及していた。家庭の事情から10歳で携帯電話を手にした少年だったが、通話とメールしか出来ない物体は本当につまらないものだった。唯一、好きな女の子とメールを交わしていたときは、初々しくも胸が躍り狂った。でも、その程度のものだった、当時はただの連絡ツールでしかなかった。でも、現在はその物体でなんでもできるようになり、インターネットには、アプリには、魅力的なものばかりが散らばり、わたし達の大切な時間と限りある視野が、ただ黙々と吸収されている。本当にこれでいいのかな? 他人様の意見はそれぞれあって、そのどれもが尊重されるべき意見だとは思うけれど、わたし自身は、このままで納得ができるのかな?

 

 ちょっと単語を入力して検索すれば、人間の裸も、死体も、自殺も、いとも簡単にスクリーンに表示される現代。明らかに刺激過多であることは確かなのに、もっともっと、求めてしまうのが悲しきかな人間なのです。なんにもなかった時代、ほんの十数年前のつまらなかった時代に戻りたい。もう過剰な演出には、巧妙に創り上げられた演出にはこりごりなのです。四季の移り変わりを五感で楽しむような、そんなアナログな時代に戻りたい。桜が開花したら写真を撮るような、天に向かって伸びるひまわりをアップロードするような、燃える紅葉にいいねを押すような、限定的なクリスマスローズを画面越しで見るような、もう、そんなデジタルな世界を、いっそのこと手放してしまいたいのです。便利であることは素晴らしい、けれども、同時に人間が本来備え持つ感性を吸い取ってしまう、そんな気がするんです。これはわたしの直感です、だからこそ、わたしは自分の直感を信じながら歩みを進めたい。便利な世の中になりました、それなのに生き辛い世の中になりました。どうしてそのほとんどがテンプレート、もうわたし達の独創性、オリジナリティが、テクノロジーの餌として補食されている。その感覚を拭うことが難しくて、こういう時、誰かに会いたいと思う。大切な人に会いたいと願う。アナログな関わり合いを、言葉を、温もりを、持ち得る五感すべてを使って、感じたいと思うのです。