[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0316 惨敗は成功の種

 

 ほんの些細なことが気になる日、見えないものが気になる日、五感が鋭敏に暴れ回る日。予告なしに不安定を曝す情緒、その一日はずっと暗闇の中を歩いているみたいで、なんだか生きている心地がしない。そういう時、みんなはどうしてるんだろうか。それでも働きに出なければならないのが社会人で、それでも与えられた役割をこなさなくてはいけないのが人間で。親としての、子としての、社員としての、友人としての、様々な役割を器用に綱渡りする中で、気になることがチクチクと脳を刺して、なんにも集中できないままでいる。

 

 青い空に差し込む日光が、街中のイルミネーションが、蠢くひとの軍勢が、眼球を揺さぶるようで痛い。目を閉じる、ゆっくりと呼吸をする。そうすると、次は嗅覚情報が急加速して、不快な臭いが鼻腔を満たす。ずっと鼻をつまんでいる訳にもいかないし、やはり鼻栓みたいなものがあればいいのに。ノイズキャンセリングイヤホンみたいな感覚で、不快臭だけを排除するお洒落な鼻栓があればいいのに。なんてことを思いながら、やはりわたしは疲れている時、こういう状態になりやすい事を思い出す。そして困ったことに、こういう時は往々にして、自分の五感を信じられなくなってしまうのだ。

 

 いま目で見ているこの状況が、本当にありのままの世界を映したものなのか。なぜだか分からないけど、ずっと嫌な臭いがする。触れていない、物理的にあり得ないはずなのに、確かに触れたような感覚がある。周りにいる誰かにその真実を確認しても、「なんにも汚れてないよ」「臭くないよ」「大丈夫だよ」と言ってもらえるだけで、ただ申し訳なさだけが空気中に立ち込める。そういえば、小さいときから「大丈夫かな?」とよく親に確認していたことを思い出す。あの頃から、見えないなにか、存在しないなにかのことが、ずっと気になっていたんだよなぁ。「大丈夫」の音色で深く安心していたかった。

 

 そう考えると、あの頃からなにも変わらない。今となっては「これは結構危ないやつだ」と、ある程度判断できるようになってきたので、そう直感した時には、無理せず、世間と自分を遮断して、存分に休むようにしている。この時だけは、全ての役割を放棄する。自分という種子にたっぷりと水を与えるような、そんな優しい生活を積み重ねたいのだけれど、いかんせん世の中には雑音が多すぎる。そして、気が付けば水をやることなど忘れてしまって、次々と、大切なわたしが枯れていく。だからこそ、「可哀想なわたし」ではなく、「可愛らしいわたし」をただひたすらに愛でるような、そんな一日があってもいいじゃないか。

 

「何も気にしなければ、人生はバラ色だと思うの」

「でも、どうしても気になってしまって苦しい」

「どうすれば、もっと気楽に考えられる?」

 

「気になることに対処しなくても、現実には何にも起きないことを知る。その小さな成功体験を、ただひたすら積み上げていくしかないんじゃないかな」

 

 苦しい時、楽観的に考えるのが上手な先輩に問うた。その通りでしかなかった。詳しく書くことは控えるけれど、これは強迫性障害の認知行動療法そのものの考え方だった。あぁそうか、この人は物事の本質を無意識的に理解されているのだな.....いくら論理として学んでも、ずっと受け付けないままのこの精神が、少しだけ悲しく思えた。でも、それでも、これが現在の自分なのだ。それ以上でもそれ以下でもない、ただそこにあるだけの現実を、抱きかかえて生きていくしかないんだ。「神経質だね」「感受性が豊かだね」「生き辛そうだね」これまで浴びてきたたくさんの言葉が脳内で再生される。自分は他の誰にも変身することはできない。楽観的になりたい、気楽に生きたい、もっと大胆に進みたい。もしかすると、すべての憧れは幻想なのかもしれないね。なにも気にしなければバラ色の人生は、それこそが虚像であり、自分と向き合わないための、現実逃避としての儚い色合いだった。

 

 しっかり休んで、動けない自分をゆるして、他のだれかになれない事実を受け容れる。わたしは、わたしのままで良かった。あなたが、あなたのままで良かった。ゆっくりと、自分の歩幅で進んでいく。この人生がバラ色でなくても構わない。セピア色の景色を記憶に浸して、わたしはあなたに会いに行く。その時に話すのは惨敗の記録で、そんなわたしを、心の底から笑っておくれ。