[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0307 不確実な道筋

 

 寒さが増してくると、不意に過去の記憶がブワっと湧いてくることがある。この瞬間まで完全に忘れ去られていた過去。関係性など何もないのに、なぜ今になって出てくるのか。不思議でたまらないけれど、それは確かに存在した過去に間違いはなくて、その間違いの無さを確認する方法が見つからなくて、これは本当に自分の記憶なのだろうか?

 

 経験したはずのこと、その瞬間に思ったこと、目の前に広がる景色、相手の表情、香り、色彩、、、綺麗にフタをして、今日までを生きてきた。嬉しかったことや悲しかったこと、辛さや苦しみも、すべて閉じ込めてきた。優しかったあの人の笑顔を、いつまでもわたしは信頼していた。過去形を用いることができるのも記憶が存在するからであって、過去と現在の解離が激しいわたしにとって、もはや時間軸などどうでもよかったのかもしれない。未来のことはなにもわからない、ぜんぜん見えてこない。だから、現在と過去を慢性的に往き来している。本当は現在を、この瞬間のなかだけを生きていたいのだけれど、それでもあの日の、自分に与えられた優しさに寄りかかりたい瞬間がある。いつまでもわたしは子供で、過去のなかはいつだって温かかった。

 

 失った体温を探し求めるかのように、記憶が次々と提供される。これは違う、これも違う、なにもかも全部違う。現在にふさわしいものなど何一つとしてありはしない。本当に、わたしは僕として、生きてきたのだろうか? 歩んできた道筋に確証が持てなくて、己のなかに他の人格が住み着いていることを疑ってしまう。これを書いているわたしは、一体いつ生まれたわたし? ずっとずっと心の中で、身を隠してきた。たくさんの抑圧のせいで背骨が曲がってしまったわたし、それを見てきたわたし、見て見ぬふりをしたわたし、わたし、わたし、どこにも見当たらない、あなた。

 

 最後に泣いたのはいつだろう。それすら記憶に留められないほど、世界からは涙が枯れ切っている。「大丈夫」と言って苦し気に微笑むあなたの表情は、涙が流れない泣き顔だった。全然、大丈夫なんかではないのだ。あなたも、わたしも。反射的に強がりを言ってしまうね。言葉の盾で必死にあなたを守ろうとしている。結果的にそれはあなたを傷つけることになって、負った傷が過去に向かえば向かうほど取り返しがつかなくなって、やがて一つの惑星が姿を消した。居心地の良かった、大好きだった、存在して当たり前だった、温かい星が、声もなく静かに死んだ。