[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0250 わたしに優しく在りたい日

 

 身体は一番の資本であり、精神はその人を形作る上での基盤になる。理解していたつもりでいたことを再認識、思っているよりも人間はずっとずっと不器用みたいだ。限りなく無に近い中を歩いているわたし達は、その中で怒りや悲しみ、楽しさや幸福を見出している。数秒後にはすべてに靄がかかり、数分後には空気中に分散される。数時間後には世界に解き放たれたあらゆる些細な感情が、時を経て数日後数年後には無かったことになっている。事細かに感情を思い出すことそれ自体が不可能で、最早無数に散らばる過去は憶測ばかりの巣窟でしかない。そして、百年後には言葉通りの無になっているであろう現代を生きる人間は、決して土に還ることを夢見て現在を過ごしている訳ではないということ。そう考えると、未来にも過去にも、大して意味は無いのかもしれない。

 

 そう、大切なのは今この瞬間それだけで、それ以外の時間軸は全てが虚像だ。鮮明に思い出すことは出来ても、過去に戻ることは出来ないし、未来なんてものは朧気で不確かなものでしかない。現在を生きる、ただそれだけでよかったのに、わたし達はどうしてこうも遠回りをして余計なエネルギーを消費してしまうのか。やりたいことは今やる。未来に先送りしない、過去に感情を置き去りにしない。会いたい人にはなるべく早めに会いに行く。未来ではどちらかが欠けているかもしれないから。愛する人には、今この瞬間に愛を伝える。過去をやりなおすことも、未来を先取りすることも、そのどちらもが不可能だから。今この瞬間を大切に、愛を大切に、何気ない日常を大切に、何よりも自分自身を大切に。そうやって優しい過去を構築していきたい。

 

 だからこそ、現在を意識していればしているほど、苦しみが蔓延している時には精神が引き裂かれるように痛い。そういう時には、ずっとこのままなんじゃないかとか、もっと悪くなるんじゃないかとか、現状をより悲観的に捉えてしまうことが多い。悲鳴を上げている心はとてもセンシティブだから、それは仕方がないこと。だからといって何も考えないようにすることは難しくて困ってしまう(わたしもいつだってそう感じています)。そういう時は、悲観に浸ることもせず、何も考えないことを考ようとせず、ありのままでいればいいんだと思う。苦しい時は苦しいのだから仕方がない。あなたはこれっぽちも悪くない、たまには世の中のせいにしてもいいんじゃないか。現在を生きているだけで大正解だ、それだけで充分立派なことだ。だから、一通り悲しみを味わった後には、しっかり身体を温めて、ゆっくりと眠ろう。心の納得がいくまで、どこまでも深く眠ろう。人に会いたくない時には誰とも会わない、甘えたいと思った時はちゃんと甘える、お腹が減ったと感じたら心が望むご飯を食べる。発せられる心の声に誰よりも素直に従って、今日だけを生きる。それが自分に優しくすること、わたしが私に優しく在ることだと思うのです。