[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0251 mellow.

 

 久し振りにお酒を飲みながらブログを書いています。何だか懐かしい気持ちになるけれど、そこまで月日は経過していなくて不思議な感覚。数日前に会ったはずの人はもう長いこと会っていない感じがするし、先月会った人は年単位で会っていない感じがする。目にも止まらぬ速さで流れていく時間をただ傍観することしか出来なくて、こうやって人生は終わっていくのだろうなと感慨を深める。

 

 変わっていく人の姿を目の当たりにする度に、自分だけが置いてけぼりにされたように感じる。撒かれた種はやがて花を咲かせ、そして最後には枯れて土に還る。植物も、人も、世界そのものでさえも、常々変化を止めることはない。わたし自身も生を送る中で変わり続けている。それなのにどうして置いてけぼりを感じるのか、それは自分の変化に気付くことそれ自体が難しいからだ。

 

 間違いなく、わたし達は今日を生きる上で何かしらの変化を成し遂げている。他人の変化は目に見えてわかりやすく、いくら自分自身を鏡で映し出したところで、映り込むささやかな変化に気付くことは容易ではない。人は目に見えてわかりやすい事柄を好む。それは単純に楽だからであって、わかりにくいことを理解しようとすることは、苦痛を伴うから考えないようにしている。相手の変化と自分の変化を比べて落ち込むことは、苦痛から逃げているだけなのだろう。自分と向き合おうとしない、自分の変化を知ろうとはしない。そもそも他人と比べること自体が間違っていて、そうすることで少しばかりの不幸を感じたいだけなのかもしれない。

 

 わたしは、自分自身の変化を受け容れたい。愛されたいと嘆くことに疲れ、気持ちが変化したその先にあったのは”愛したい”という願望だった。真逆とも捉えることが出来るその想いは、決して相反するものではなく、常に世の中で共存しているものだった。愛することは、愛されることでもあって、その逆もまた然り。現在のわたしは世界に対して、そして人に対して優しく在りたいと思っています。そう思えるようになったのは、自分自身の痛みから逃げなかったからだと断言できる。どうしても自分自身を捨てることは出来なくて、苦しみに浸ることを覚悟した瞬間から肩の力が抜けて、思考に柔軟な余白が生まれた。そうして初めて、自分自身の大きな変化を感じることが出来た。多分、一年前の自分が見たら鼻で笑うであろう様々な考えや生き方が、現在のわたしを構成している。人に優しく在ること、ありがとうを伝えること、希死念慮とは上手な距離感を保つこと。日々の中を生きていると、想像だにしない出来事が起きる。それは良いことかもしれないし、もしかするととても悲しいことなのかもしれない。出来事に意味付けをしてしまうのが人間で、だとすれば全ての変化に良いも悪いもないんじゃないか。たとえ心が落下する一方に感じることであっても、そのすぐ後にはふかふかのクッションマットが全身を包んでくれるかもしれない。だからわたしは、現在の自分自身を認めて、世界に散らばる嘆きを愛していきたいと思っています。