[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0109 在りし日の憂鬱

 

「あぁ、自分はいまとても”人生”を送っているなぁ。」

 

 そう感じる瞬間が増えた。生活に取り組んでいる実感みたいなものがある。それは即ち生きているということで、自分自身をありのまま感じている、ということでもある。

 

 よく眠って、書いて、書いて、読んで、適当に仕事こなして、お酒飲んで、たまに友人と会って話して、また眠って。

 

 わたし達はそれ以上に何を求む?。富も名声も、洒落た装飾品も、温かい家庭も、わたしには必要がない。文学と、生活していけるだけのお金があれば、それでいい。

 

 現状に満足しているかと問われると、そういう訳でもなかったりする。もっと自分自身を表現したい、もっと具体的に形として落とし込みたいと考えていて。その為にはどうすればいいのか、どう動けばいいのか、そんなことを一人きりで思考している時間が何よりも好きだ。そして、その瞬間は私の中に未来が存在している。

 

 死んでやろうと思っていた。一人で静かに、居なくなろうと思っていた。消えたかった、消してほしかった。温もりがほしかった、それよりも手にした温もりが無くなることを恐れていた。そこに未来など存在していなくて、ただ過去の中だけを右往左往していた。

 

 今でも"死にたい"と思うことはあるけれど、工夫次第で少しだけ愉快な気持ちになることが出来る。

 

「悲劇のヒロイン面し過ぎやろ、笑う」

「たしかに、壊滅的状況やなぁ」

「とりあえずハイボール飲んでウィーする?」

 

"死"を願う自分自身を客観的に見てコメントしてあげる、という遊び。これはメンタル回復の手助けにもなるし、いつでもどこでも手軽に出来るから、病める心を持つ全人類にお勧めしたい。

 

 なんかもう、"生きる"って適当ぐらいが丁度良いんだと思う。真面目なことは素晴らしいことだけど、"生"と真面目に向き合い過ぎるから、心が疲弊してしまう。挙げ句の果てには音もなく壊れてしまう。

 

 適当って抽象的だし、定義が無いだけに一概に言うことは出来ないけど、自分が思うに「遊び」を取り入れることなんじゃないかと考えていて。

 

 私たちが生まれてきたことに意味なんてない。あえて意味を見出すとすれば、それは遊ぶ為に生まれたんじゃないかな。

 

 幼子を観察していると、気付くことがある。彼、彼女たちは、何でもかんでも"遊び"へと変換してしまうのだ。夢中で眼前にある遊びに取り組む。とても楽しそうな表情を浮かべている。飽きたらまた別の遊びへと乗り換える。そして、疲れたら眠ってしまう。

 

 私たちも幼子を見習って、遊びの要素を取り入れよう。仕事も、趣味も、会話も、食事も、勉強も、何もかもを遊びと紐付ける。真面目に遊ぶ、ただそれだけでいい。それこそが、"適当"と形容するに相応しい在り方なのではないでしょうか?

 

「いくら真面目に努力しようとも、楽しんでやってる人間には勝てない。」

 

 この言葉が好きです。楽しむことは努力を軽々と超越する。成功すればもっと楽しいし、失敗さえも楽しむことが出来る。だから続けたいと思うし、意識しなくても気がついたら遊んでいる。

 

 

 現在のわたしはそんな感じ、適当に生きてます。何かもが遊びだから、肩の力抜いて適当に死んで行きたいな。

 

 

 遊んで暮らそう、一緒に踊りましょうよ。