[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.068 恰もそれが当たり前かの様に

 

 人は、いつか死んでしまう。

 

 大きく息を吸って、二酸化炭素を深く吐き出す。呼吸を繰り返す度に、一歩また一歩と私たちは死に近づいている。吸うことで死を取り込み、吐くことで体内に死を循環させる。百年後には、これを読む全ての人間が死んでいる。死ぬ為に生きるのか、生きる為に死へ抗うのか。「私はまだまだ長生きしたい」なんてことを言ってしまえる人間に、なりたいとは思えない。私はそうでなくてよかった、と思うんだ。

 

 人間が人の形を保つ上で欠かせないもの、それが愛だ。わたし達が人生を賭けて追い求めるもの、遺伝子に組み込まれた根源的な欲求。心が愛で満たされていないと苦しいと感じる。その苦しみから逃れたいから、必死になって愛を探している。血眼になっている時は視野狭窄に陥っている為、正しい愛は見つからない。結果的に、より苦しみが増す。ウロボロス=負の連鎖を繰り返す中で、わたし達の心が削られていく。やせ細ってしまった心に生物的な魅力は感じない。愛の獲得に失敗した人間の悲劇が終幕する。ただ愛されたかった、温もりが欲しかっただけなのに。

 

 

 「いつ死んでしまっても、いなくなっても構わない。」

 そう思いながら、日々を消費している。あくまで個人的な思想だけど、”生きたい”と思いながら日々を邁進するような生き方は、わたしには少し息苦しく感じる。”どうせいつかは死んでしまう”という一種の諦念。自分は寿命を全うできるとは思っていなくて、「然るべき時に消えてしまう」といった予感が心の奥底に強く根付いている。それが明日なのか、一年後なのか、もしかすると、今日なのかもしれない。それは自分ではわからないけれど、わたし自身この漠然とした予感をとても気に入っている。消えてしまうからこそ、やりたいことを叶えていきたいと思う。書きたい文章、撮りたい風景、飲みたいお酒、自分の中に在るあらゆる欲求を何もかも満たしてあげて、その後は心に身を任せればいいと思っている。

 

 死を意識したい時には、墓参りに行く。行ったからといって何か現実が変わる訳でもない。寧ろ、何も変わらないことにこそ意味がある。生きている人間が、亡くなった人間に会うため足を運ぶ。実際にはそこに眠っているのかなんて解らないのに、それでも死者がそこにいると信じ込んで、持参した花を手向けている。その一連の行動は、生きる者の死者に対する願いだ。そんなやり場のない一縷の祈りを、死者を信じ込むことによって、行動として昇華しているんだろうか。

 

 願いは目に見えない、亡くなった人間も同様に。手向けた花束だけがわたし達の視覚を彩ることが出来る。自分がいなくなってしまったら、わたしに花を捧げることは出来ない。それならば、生きている間に花を咲かせたいと思った。咲いた花と一緒に焼かれたい。どんなに美しい顔も肉体も、死んでしまえば何もかもが灰になる。それなのに、人間は美しく在ることを願う。いや、灰になるからこそ美しさを追い求めるのだろうか。それってとても人間らしくて、素敵な事だと思う。

 

 

 身体に花を咲かせる、それは花言葉を飲み込むということ

 「わたしは、美しい灰になりたい。」