[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.069 揺れるブランコと少年は

 

 一体自分は何がしたかったんだろうか、という感覚に襲われることがある。これは後悔なのか、それすらもわからない。きっとこうなることはわかっていたハズなんだ。いつもの破滅願望がわたしに行動を催促して、わたしはそれに従うことしか出来ないでいる。過ぎ去った後、吹き出してしまうほどに。なんとも愚かで醜いんだろう、わたし。しかし、そんな自分を責めたりすることは無くて、逆に”よくやった”と褒めてやりたい気分になる。どれだけ自罰的であろうとも独りを選択しないで誰かを求めていたこととか、あれほど酔っぱらったのにも関わらずなんとか家に帰れていること、今日も日々に絶望していること。そんな自分が何とも愛おしく、そう思えている自分が嫌いではないこと。

 

 小学六年生のころ、同級生と23時頃まで公園で遊んでいたことが何度かあった。その時は二人でずっとブランコに乗っていた。ただひたすらに、何度も何度も靴飛ばしを繰り返していた。それだけ、ただそれだけのことなのに、わたし達はとても楽しむことが出来ていた。公園を照らす街灯、視界から消える靴、遠くの方で鳴る靴の衝突音、砂利に転がる所在なさげな靴とわたし達。何を話していたかなんて覚えていないけれど、その光景だけは今でも鮮明に思い出すことが出来る。俗世間的に言えば「エモい」思い出なのかもしれないけれど、そんな消費的な流行語で解釈できるほどこの思い出は簡単ではない。きっと、わたし達は世に対して不満を抱いていた。思春期真っ只中ということも要因としてはあるのだろうと思う。けれど、それでもわたし達は温かさに飢えていた。その飢えを凌ぐために、二人でひたすらにブランコを漕ぎ続けるしかなかったのだ。

 

 きっと、わたしは今でもそのブランコに乗っている。小さい頃は後ろから押してもらっていたけれど、今ではその押してくれる誰かも消えてしまった。だから私は、自分の身体全体を使って、揺れるブランコが失速しないようにしている。そうやっていつまでもいつまでも前後を行き来しながら、止まることに恐れを感じているんだ。止まってしまえば、再び動き出すまでにたくさんの時間と労力が必要になる。ずっと動き続けていることが、何よりも楽なこと。だとしても、ずっとずっと繰り返される前後の揺れに対して、辟易してしまう瞬間もある。何故わたしは揺られているのだろう、いつまで私は揺られ続けるのだろう。「わからないわからない、きっとこれは考えても仕方のないことだ。」、そう思った時には、背中が虚しさで埋め尽くされる様な錯覚に陥る。誰かに背中を押してもらいたくなる。揺られる私を見ていてほしい、私の背中を感じてほしい、私に両手の体温を感じさせてほしい。そう思い後ろを振り返ってみても、そこには人っ子一人存在していない。現実と理想の乖離を視界に入れない為に、私は私の意志でブランコを加速させていく。

 

 

 自分の意志で、”揺れ”を強めることも緩めることも出来る。何もかもどうでもよくなったり、疲れてしまった時には止まることも出来る。自分の全てに責任を持つこと、これが大人になるってことなんだろうか。だとすれば、大人も悪くはないのかもしれない。誰にも見られていなかったとしても、私はブランコを漕ぎ続けるのだろう。本当は誰かに見てほしいのだけれど、周囲に誰もいない時にはどうしようもない。そんな諦念を受け入れることも、大人になる上での必要項目なんだろうか。大人とは、諦めを受け入れた子供の行く末なのかもしれないな。

 

 

 そうやって今日も、ひとりブランコに揺られるわたしがいる。