[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0452 旧友からの手紙

 

 なんとなくこのままではいけないような危機感がずっとあって、変わることばかりに意識が向いていた。変わろうと思わなければ、人間は変われない。そうして少しずつの変化を毎日積み重ねた結果、自他共に認める変化が内側からその芽を出している。

 

 表現に関してもそうだ。一体わたしは、だれに、なにを、届けたいのだろう。どうして文章を書いているのだろう。毎日そんなことを考えては答えが出ないままおやすみなさい、圧倒言う間に一日が終わる。こんな感じで気が付けば年を重ねていて、気が付けばなにも変わらないままの自分がいて、あの時こうしていればよかった、だなんて戯言を吐く未来が浮かんでは消え、また浮かんでは消えて。少しばかり焦っていた。このままじゃなんにも変わらない。このまま終わってしまうのは、嫌なのだ。

 

 友人とLINEをしていた。彼女とはもう随分と長い付き合いで、これまでに色んなお話しを重ねてきた。わたしは、彼女の考え方だったり、視点だったりが好きなのだ。インターネットを介して言葉のやり取りをする中で、先日テレビで放送された宇多田ヒカルさんのインタビュー映像を薦めてもらった。なにを隠そう、わたしは宇多田ヒカルさんが大好きなのである。その割に、普段テレビ放送を見ない、インターネットもあまり見ないものだから、こうやって情報をいただけることがとても有り難い。休日の昼下がり、冷静を装いつつも小躍りしながら、見逃し配信をクリックした。

 

・歌を届ける対象の変化
・個と普遍性について
・他者とは

 

 友人とわたしが話し合っていたことを、宇多田ヒカルさんが美しい日本語で話されていた。感覚としての共鳴、やっぱりわたしたちは間違っていなかったんだ。「歌を届ける対象は自分」「個を突き詰めれば普遍的になる」「他者とは自分を写す鏡」、回答のどれもこれもが胸のなかに強振動、思わず溜息が溢れ出る。このような映像を無料で閲覧できる現代社会、まだまだ捨てたもんじゃないなと思った。そして、これを見てわたしを思い浮かべてくれる人がいる。わたしが進んできた道のりが、正解であったことを思い知る。

 

 なんのために書くのか、そして、なんのために生きるのか。正直、生きることに関しては全然わからない、定まらないことだらけなのが現状。なんせこの間まで死ぬつもりで、惰性の日々を送っていたのだから。いまは生きる方向にシフトレバーが倒れているけれど、またどのタイミングで落下するのかわからない。そんな恐ろしさを完全に払拭することは難しい。そのなかで一つだけ確信できるのは「わたしは書かないと生きていけない」ということなのだった。

 

 こう言うと大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、本当にわたしはたくさんの言葉に生かされている。ひとを形作るのは言葉なのだと信じている。だから、自分も言葉を扱う側でありたい、書きたい、言葉で自分を表現したい。日々、実感している。言葉に殺されることもあれば、言葉に救われることもある。わたしが紡いだ言葉を読んで、救われる人が一人でもいれば、わたしも同じくらい救われるのです。綺麗事でしょうか? いいえ、これはわたしのなかにある信念です。たとえ誰の心にも響かなかったとしても、書くだけで自分の一部分が救われるのなら、もうそれだけでよかったじゃないか。

 

「あなたが、自分の為にブログを書いてなかったら嫌だから、この映像を見てほしかった」

 

 このようなことを彼女は言ってくれた。誰かに届けることばかりを考えて、「自分のために書く」という根本的なことが薄らいでいた。ずっとそうだった、学生のころから、書くことによって自分を成長させてきたのだ。過去も現在も変わらない、もはや無意識で書いている。そうすることでしか生きられなかった自分、そんな自分だからこそ、こうやって意見を交換できる人がいて、価値観を共有できる繋がりを持てた。間違っていなかった、わたしは、わたしたちは、なに一つとして間違っていなかったのだ。これまでの全てが正解、定められた生き方ができないことも、生きることへの息苦しさを感じることも、考えすぎることも。思い悩んできたこと、そのなにもかもが正解だった。すべての積み重ねで自分自身が形成されている。そんな現在の自分が、昨日よりも少しだけ誇らしく思えた。

 

 今日もわたしは、自分のために書いている。彼女が伝えてくれたこと、教えてくれたことを胸に抱えながら、明日への道のりを進んでいる。今日という一日のなかで、また会えるその時まで、ずっと。