君が落としていった言葉を摘んでいたら、
気が付けば手のひらには小さな花が咲いていた
綺麗な朱色 と 悲しげな藍色
交差する世の中はきっと中間色を忘れている
いつまで経っても悲しい、
いつまで経っても悲しいままで
僕たちは傷つかないことばかりに集中していた
君がいなくなる夢を見たよ
わたしがこの先を生きる妄想をしたよ
いつかは灰になる体温の定め、
だからわたし達はそれぞれの形をぶつけている
誰かに褒められたい、認められたい
この先も幼心から抜け出すことは難しいみたいだ
きっと、その中で同じように安心している
君の言葉で咲いた花は、
いつの間にか枯れていて、
それはわたしの心を見つめているようだった
いなくなりたいと願うことも、
ずっと忘れないでほしいと祈ることも、
そのすべてが君に送るはずの恋文だった
欠片になった手紙が肌を切るようで痛い、
枯れた言葉を握りしめたままのわたし
もう咲く事がないとわかっていても、それでも
生きていると、時折このように詩が書きたくなります。きっと、自分が込めた想いをそのままの形で届けることは難しくて、それは詩に限らず文章も同じ。言葉を扱い表現をする中で、それは避けられないことなのだと思う。解釈はそれを読んだ人に委ねられている。あくまで自分はそういったスタンスで言葉を選び取っています。ものすごく落ち込んでいる時に書いた文章が、読み手によっては愉快に感じる場合もある訳で、落ち込みがそのままの形で伝わらないという点、言葉にすることによって姿かたちが変わっていくという点が、言葉遊びの素敵な一部分。頭の中にゴチャゴチャと詰め込まれたブロックを一旦外側に出してみたら、立派な恐竜の赤ちゃんが完成しました。みたいな、そんな感じが好きです。
ブログは自分の考えていることを表に出す場所だと認識しているので、ここで詩を掲載するのは違う気がする。これからも詩を書いていきたい、どうせ書くからには誰かに見てもらいたい。そういった思いが浮かび上がったので、こことは違うまた別の場所で、密やかに書いていこうと思います。世の需要とは関係なしに、ただ「書きたい」という思いだけを大切にしたい。
「たとえ作品がお金にならなかったとしても、創作は続けるべきだよ。そもそも芸術というのはそういうものだから」
少し前に先輩からそう言われました。二人でへべれけに酔っぱらっている中で、先輩の鋭い理性が垣間見えた瞬間だった。この言葉にとても救われた。そうか、自分が書きたいと思うものを書けばいいんだ。それで売れようなどと考えなくてもいいんだ。肩の力が一気に抜けた、まだ蒸し暑い夏の夜でした。
ブログでも、詩でも、小説でも、自分が書きたいと思ったことを、これからも書いていきます。なんとも物好きな読者の皆さま、これからも末永くよろしくお願いします。なんてね。
了