[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0281 ショートケーキといちご

 

 わたしには、自分の中で決めているたった一つの信念があります。それは「世の中に甘えて生きていく」ということです。

 

 なんでも自分でやらなくちゃいけない、みたいな苦行主義的生き方はどうしても疲れる。「甘えてないで自分でやりなさい」「他人任せにしてはいけない」幼少期に受けた洗脳が解けることなくそのまま大人になってしまうと、何でもかんでも自分の中で抱え込んでしまって、それを吐き出すことが罪に思えてしまって、一人雁字搦めの中グチャグチャに煮詰まっていく。心身が壊れれば壊れるほどに、手を差し伸べられる人は少なくなる。他人という生き物は、割とあっさりしているものだと感心する。そりゃそうか、一番に大切なのは自分が生きていくことで、生活を成り立たせていくことで、他人にとっての他人、つまるところの自分自身など二の次三の次なのは当たり前のことだ。人が故障している状態というのは、繊細に取り扱う必要性を感じてしまう為、それを面倒だと感じる人たちは次々と離れていく。嘆けば嘆くほどに人がいなくなる。元気な時はあれほど良くしてくれた友人も知人も家族も見ず知らずの人も、青ざめた顔を浮かべたわたしを過去と比較しては静かに失望している。あぁ、こうなればもう皆揃って別人だ。ちがう、唯一わたしだけが別人なのだった。わたしがわたしだと認識していた私はもうそこにはいないわたしになっていて、わたしは私は見失っている。そうして自分が独りであることを錯覚する。

 

 これは陥りがちな奈落思考パターン。実際はその状態でも優しくしてくれる方はいて、独りなんかではなかった。けれども思考ばかりが加速的に急降下を続けて、”一人きりの自分”という哀れな虚像を仕立て上げていた。心が落ちれば落ちるほどに、冷静に考えることが困難になる。シンプルに言えば、周りが視えなくなるんだね。もしかすると、悲劇のヒロインはこのようにして量産されていくのかもしれない。ヒロインは一人だから物語のアクセントになる訳であって、世に何人ものヒロインが溢れている現状としては、華も色気もなく没個性的だと感じる。わたしもその内の一人であった。

 

 最初から自分で抱え込んでしまうから苦しくなる。それならば、気楽に他人を頼ればいい。自分が立派な人間でないことを、世界の中に露呈していけばいい。そもそも人間は一人で生きられるようにプログラムされていない。孤独感は心に悪影響を及ぼす。必ずどこかのタイミングで心身に不調が現れる。幸福度の研究では、人との関わりについて示唆されていることが多い。通説によると、人の悩みの9割は人間関係で構築されているらしい。これを逆説的に考えると、他者との関係性を良好に保てていれば、ほとんどの悩みが消滅するということだ。

 

 誰かと全く関わらないよりは、適度に関係性を保っている方が心に優しい。それならば、もういっそのこと自分一人で抱え込む必要はないのではないか。嬉しいことがあれば話しを聞いてもらえばいい。苦しくて胸が爆発しそうな時は「助けて」と一言漏らしてみる。どうしてもやらなければならないことは、自分より得意そうな人がいれば思い切ってお願いしてみたい。頼れる人がいないんだよという場合には、お金を支払ってプロに仕事を任せればいい。

 

 何でもかんでも他人に頼ることはいけないとか、他力本願が過ぎるとか、真面目な世間は戯言ばかりを投げつけてくるのだろう。そういうのはノイズキャンセリング機能でシャットアウトしてしまって、わたしは世界に甘えていきたい。だからやりたくないことはやらない、気分が下がることはしない。一番に料理はしたくなくて、大きな掃除も苦手。成功を目指すことも、幅広い友人関係を作ることも、家族ごっこも、そんなことに費やせる時間も精神も持ち合わせていない。とにかく、自分が苦痛に感じることは外注、もしくは環境を変える。そういったことにお金を使うことは、豊かな時間と心の安らぎを得ることだと思うのです。

 

 時折、友人だったり、友人のオカンだったり、恩師だったりにご飯を作っていただくことがあります。一人で食事をすることが寂しくなった時に、お願いしますとLINEを送る。”料理”の二文字が現時点で一番苦手なことなのだけど、”いただきます”から”ご馳走様でした”までの流れは割と得意なのだった。手料理を本人の目の前でモリモリ食べていると、ふと相手が微笑んでいることに気が付く。「どうして笑っているの?」と問いかけてみると、「それだけたくさん食べてくれたら、こっちも作り甲斐があるね」とまた少し笑みが増した。わたしが一番苦手としていることを、目にも止まらぬスピードで楽々こなした上に、そんな優しい一言、表情を相手に与える余裕まである。目の前で起きているその事実に対して、わたしは静かに脱帽する。

 

 友人が困っている時、力になれることがあればいつでも手を差し伸べたいと思っています。「重い物を持ってほしい」「ちょっと話しを聞いてほしい」「意見を聞かせてほしい」「最近鬱っぽいんだけど」「この感情を言語化してほしい」「やけ酒に付き合ってくれ」自分が少しでも得意とすることならば、それは何だっていい。「世の中は助け合いで回っている」なんて言葉は所詮綺麗ごとで以前は気に食わなかったのだけど、結局のところその通りなのだった。自分一人で抱え込むのではなく、周囲に存分に甘えて生きる。頼られた時には、喜んで力を貸す。これは人間関係も仕事も、本質的には同じことだと思うのです。

 

 そして、いつでも差し伸べられるように、この手を綺麗に磨いていきたいと考えています。