[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0253 大人としての、

 

「大人ってなに?」

 

 幼少の頃は、大人というのは果てしなく立派な存在なのだと思っていた。現在は成年年齢が引き下げられて、定義としていち早く大人になることを少年少女たちは強いられている。数字だけで見れば、生きてきた年月だけで見れば、大人と子供の区別はいとも簡単につく。けれども、会話の中で「めっちゃ子供やん」と大人(成人)に感じることが多々あって、内面が幼いまま図体にだけ栄養が行き届きこんなに大きくなりました、みたいな人間が現代の世の中にはあふれている。もちろん自分もその中の一人である。

 だからといって、子供っぽい人が苦手な訳ではない。幼児性とは純朴なパレットみたいなもので、何色にも穢されず、どんなものでも描くことが出来るから。大人になるにつれて失ってしまうであろう大切な何かを、丁寧に抱えながらこれまでを生きてきた人でもある。「立派な大人になりなさい」というイメージの刷り込みに心が負けなかった人。子供さながらの無邪気さや不可解さというのは、見方を変えれば一種の強さになることがある。大きな欠点と馬鹿にされるものが、力強い武器になることを知っている。そう思っているのだけれど、自分にもお子様な一面が多く見受けられるので(指摘されるので)、ただ単に子供っぽさに対してシンパシーを感じているだけなのかもしれない。

 

 まだ未成年の頃は「大人っぽいね」と言われることが嬉しかった。しかし、時を経た現在は「子供っぽい」と言われるようになり、それに対しては虚しさ以外の感情は発生しない。「落ち着いてるよね」って言われても、こちらとしてはただボーっとしているだけだったり、喋るのが面倒に感じて口数が減っていたり、ただそれだけのことを勘違いされて”落ち着き”として勝手に判断されている。そう、全ては世間、他人からの判断であって、”大人”という状態そのものが虚構なんじゃないだろうか。生まれ育った環境やこれまでの経験の総集が”わたし”なのであって、それを実年齢と照らし合わせた時に大人とか子供とか素敵とか有り得ないとか判断されているだけ。年齢っていうのはその人を表す大きな判断材料の一つではあると思うけれど(初対面では特に)、それを基に既存の枠組みに当てはめられることを考えれば、これからは大幅に年齢詐称をしたいような気持ちになります。自分としての人間性を無為に判断されたくない、面倒くさいと思ってしまう心の在り方が、私の内側にある子供っぽさをありありと物語っている。

 

 思うのだけれど、しっかりとした大人になんてならなくていい。テキトーな大人、ちょっぴり駄目なぐらいがちょうどよい。社会に出て、人間関係の荒波に揉まれ、上司にヘコヘコと頭を下げて、モテるモテない論争に巻き込まれ、私生活の充実を訴える為にSNSに張り付いて、時には一人で泣いて。ステレオタイプからの脱却というか、周囲に張り巡らされた他者の眼球一つ一つに釘を刺しながらスキップをする。そして、自分のやりたいことをやって、理想の死に方を見届ける。”良い風な自分”を世間に展開することはいとも簡単に出来るけれど、”本当の自分”で世の中を闊歩するのはとても難しくて、相応の勇気が必要になる。前時代的な思想が脳味噌にへばりついている人も残存しているけれど、それでもいつの間にか頻繁に目にするようになった『多様化』という言葉のおかげか、大分と楽に歩けるようになった。”本当の自分”を子供っぽいとか情けないとか自分勝手だとか、好き放題評価する世の戯言なんかは受け取らずに、あなたはあなたのままで、わたしはわたしのままで、好きに生きればいいんじゃないかな。

 そう考えれば、大人だとか子供だとかは大したことではないよね。大人がお子様ランチを注文したっていい(注文出来ないお店もあるけれど)、子供がブラックコーヒーを飲んだっていいのだ(酒、煙草は二十歳を過ぎてから)。ただ一つだけ共通して言えるのは、大人も子供も、もっとたくさん甘えていいということ。他人に、世界に、そして自分自身に。息抜きがてら甘えてしまって、気楽にやっていければいいね。しんどくなってから初めて甘えるのは回復に時間を要するから、できればしんどくなる手前で、日常的に自分には甘々でいたいものだ。納得のいく生き方を心掛ける ー それが人間としての、健全な在り方なのではないでしょうか? 大人も子供も、もう少しだけ楽に生きていければいいのにね。