[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0162 アンチ・コミュニケーション

 

 自分の殻に閉じこもるようになって、他者とコミュニケーションを取ることが少なくなった。最低限の会話、最低限の関わり合い、自分と他者との間に天にも届くほどの大きな壁を作った。それでいい、それでいいと思っていたのだけれど、最近は少しずつ気持ちが変化してきている。

 

 中学生で不登校になり、ちょうどその頃からコミュニケーションを意識するようになった。とにかく、自分から話しかけることを意識した。同じ年の人間は怖かったので、見ず知らずの優しそうな大人にたくさん話しかけた。名前も知らないおばさんが経営するお店へ頻繁に遊びに行ったり(仕事の合間を縫ってたくさんお話しをしてくれた)、道端で困っていそうなおじいさんおばあさんに話しかけたりした(大抵の場合は酔っ払いだった)。見ず知らずの酔っ払い爺さんを自転車の後ろに乗せて、二人で街を滑走したこともあった。

 

 いま考えてみると、警戒心が無さすぎるとは思う。とにかく暇を持て余していた当時のわたしは、会話を求めていたんだろう。知らない人と話しを進める中で仲良くなっていく感覚が楽しかった。その間はお金がないことも腹が減っていることも忘れられた。

 

 高校に進学してからは更にコミュニケーションが活発になる。入学式で友人が出来たり、個人経営の飲食店でアルバイトとして雇ってもらえた(一度面接で落とされたが、後日直談判して粘り勝ち)。初めてのアルバイトではたくさんの大人たちに可愛がってもらえた。コミュニケーションが円滑になればなるほど、周囲に優しい人が増えていった。

 

 自分は同年代よりも年上の方達との相性が良いことに気がついた。小学生から現在に至るまで、年上の方達とばかり時間を共にしている。同年代や年下の方達と会話をするよりも、年上の方たちと会話をするほうが楽しい。そうやって決めつけていたけれど、結局のところ当人の人生経験や人格次第な訳であって、年齢に関わらず素晴らしい方はたくさんいることも知った。

 

 コミュニケーションについて本を読んで行動に落とし込む。心理学を勉強して相手により心地好い時間を提供する。そんなことを続けていると、次第に褒められるようになった。それと同時に、怪訝な目でも見られるようになった。「知らない人に話しかけない方がいい」なんて馬鹿親みたいな小言を吐き捨てる人間もいた。

 

 褒められると自信がつくし、自信がつくとさらに行動が加速する。行動しないと何も変わらない、だからこそたくさん話しかけた。緊張も羞恥心もほとんど消えていた。ただこの後繰り広げられるであろう会話に胸を踊らされていた。

 

 

 

 そんな自分が、急に人間を疎ましく感じるようになった。会話は勿論のこと、視界に入ることすら苦痛に感じて息苦しくなった。「面倒くさい」の一言でコミュニケーションを撃破するようになってしまった。何の生産性も無い会話を繰り広げることが馬鹿らしく思えてきて、自分から声をかけることもやめてしまった。

 

 生産性が無いと決めつけているのは自分自身にも関わらず、尚のこと会話から無駄を省こうとしている。これまでの人生を彩る様々な奇跡はすべて会話の中から生まれたはずなのに、一番大事な事柄を効率化しようとするなんて愚の骨頂だ。それでも、会話をするのがしんどかった。ずっと自分の口から吐かれる一言一句を小馬鹿にしているような感覚があって、もう声帯をぶっ潰してやろうかと思っていた。

 

 コミュニケーションがなければ、新たな人間関係も生まれないし、既に完成しているはずの関係性が発展することもない。寧ろ現実から逃げれば逃げるほどに人間同士の関係性は衰退していくばかりで、どうにも自分だけが独りぼっちのように感じていた。

 

 原因はすべて自分にある。体温を求めるくせに、肝心の関わり合いを放棄している。そんな矛盾がさらに自分を追い込み、辛苦から逃げたくて自分の世界に閉じこもる。「変わってしまったな」と思った。仕方がないと諦めている部分もあって、もうこのまま部屋に蹲ったまま終わるのかと思っていた。

 

 

 つい先日、急に誰かと話したくなった。コミュニケーションを求めている自分がいて、心の動きに素直に従った。ちょうどその時はサウナのロウリュウ灼熱地獄の真っ只中。脳内に死がちらつく程度の汗だく状態で、最寄の他人に「最上段熱すぎません?」と話しかけてみた。すると、「ヤバイです、もう途中退室しようと思いました」との返答があった。その瞬間、とても懐かしい気持ちになった。心臓がギュッと握られるようで少し泣きそうにもなったけれど、間髪を入れずに吹き出る汗がわたしを逃がさない。眼からではなく、全身を使ってわたしは涙を流していた。

 

 急に動き出した心のおかげで、忘れていた大切な感覚を思い出すことが出来た。以前のようにスラスラと話すことは難しいけれど、リハビリがてらにコミュニケーションを意識して進みたいと思っている。鬱ぎ込めば鬱ぎ込むほど”独り”になってしまう、かといって心を全開にすると自分が失われる。丁度いい塩梅が難しいところだけど、極端に生きることを止めてしまえば、少しは楽になれるのかな。

 

 

 会話が楽しいと思えている今この瞬間に、たくさんの言葉を残したいのです。