[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.049 鳴り響く警笛は聞こえない

 

 人と会う度に私は絶望している。

 それは相手に対してではなく、他ではない自分自身に対して。

 

 「人は、他人に対して興味がない。」

 この圧倒的真意を理解しているつもりではいるし、だからこそ”他人に期待しない”という処世術として心に刻み込んでいるつもりでもいる。しかし、それでもやっぱり絶望してしまう自分がいて。会話の中でふと自分側の話をした時に「あぁ、この人は会話に対して興味という反応を上乗せするつもりがないんだな」と感じることが多々ある。それは自分の会話力が欠落していたり不完全であったりするのかもしれない、そもそもの話題自体がつまらないのかもしれない。それでも、「違うでしょう」と思ってしまう自分がいて。なぜならば、相手側が話しを繰り広げている時は、物凄く表情がキラキラと輝いているからだ。色々な角度から様々な質問を投げかけてより多くを引き出すようにすると、その表情はより輝きを増す。生き生きと自分のことを話すことが悪いと言っている訳ではない。寧ろそれは素晴らしいことであって、いくつか前の記事でも記述した通り、基本的に私はその表情が好きなのです。

 

 けれども、自分に余裕がない時には、そういう人間たちに対して限りなく嫌気がさしてしまう。自分の話しばかりペラペラペラペラと口から駄々洩れ状態、耳を削がれたんですか?と疑いたくなるほどに対面している人間の話しを聞こうともしない。自分自分自分、私が私が私が、もっと聞いて、もっと受け止めて、もっともっともっともっと。そういう内面の声が痛いほど鮮明に聞こえてくるんですよ。「よくそれだけ長々と自分のこと喋れるな(笑)」と感心してしまうほどに。会話のキャッチボールってなんですか?自分だけ延々とボールを投げ続けることができれば、それで満足なんでしょうか。

 

 こんなことを思ってしまうのも、自分自身が相手に対して期待しているからだということは分かっている。「自分がこういう話しをしたら、相手はどんなリアクションを返してくれるのだろう」なんてことを思ってしまうから、そのリアクションが無かった時には絶望してしまう。要するに甘えているんです。心に余裕が少なければ少ないほど、相手への甘えが膨張する。そもそも、余裕綽々の時には”自分の話しを聞いてもらいたい”なんてこと寸分も思うことがありません。自分の中では”寂しさ”と”甘え”はイコールの関係にあります。寂しいから会いたいと思うし、寂しいから話しを聞いてほしいと思う、寂しいから相手に期待してしまう、甘えてしまう。「寂しい時に”寂しい”と言える相手がいればいいな」なんて思うけれど、その考え自体が最大の甘えなのかもしれない。

 

 こんな甘ったれた自分が嫌になって、その自己嫌悪に心の余裕が削られていく。人と関わることに少しばかり疲れてしまったのかもしれない。ずっと一人で殻に閉じこもっているとコミュニケーション能力が欠乏するし、様々な刺激に触れていないと感性が腐食してしまうと思っていた。けれど、このまま無理を続けていればそれこそ自分自身が消滅してしまう。それでは元も子もないので、世界と自分との間に少しだけ距離を取ることにした。立ち止まるのではなく、たった一人でも踊り続ける。疲れたら眠ってしまえばいい、目が覚めたらまた踊り始めればいいのだから。

 

 

それすら飽きてしまった時には、

もう何もかもを辞めてしまえばいい。