[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0442 包丁は握らない

 

「わたしは料理ができません」

 

 人生のなかで決めていることがあって、それは「料理をしない」ということです。一人暮らしをはじめた時なんかは使えるお金が少なくて、いわゆる自炊とやらに取り組んでいたんだけど、もうこれが本当にストレスなんである。お弁当なんかも作って(詰めて?)いたんだけど、これもまた非常にストレスなのであった。食材をスーパーで調達して、切ったり炒めたりなんやらして、自分が食べるものを用意する。それ自体は素晴らしいことだとは思うのだけれど、どうにも自分には、性に合わないみたいなのです。

 

 献立を考えるのも、なにを食べようか考えるのも、食材の調理も、油のにおいも、その何もかもが苦手なのであった。とても頭が疲れるんです。挙句の果てには「こんなこともできないのか......」なんて自己否定のパラダイス。頭にも心にもよろしくない。それならいっそのこと、料理、しなくていいんではないか。放棄してしまっていいんではないか。得意な人にお任せすればよろしいのではないか。そう思うようになり、次第に包丁を握らなくなり、同じものばかりを食べるようになりました。すると心身共にスッキリとした爽快感、他のことに思考を費やせるようになったんです。

 

 一方で、めちゃくちゃ料理が上手いひとがいる。調理しているところを見せていただくことがあるんだけど、もう理解が追いつかない速さで食材がその姿を変えていく。手際が良い、とはこういうことを言うのだな。なんて感心してる間に一丁上がりどうぞ召し上がれ、なんである。「カッコイイ......」素直にそう思う、心から尊敬している。そして、わたしの周りにはそんな料理上手な人がたくさんいる。性別とか立場とか関係なく、出来る人は出来るんである。同様に、出来る人というのは「これまでやってきた人」なのでもあった。

 

 最近までは「僕は料理ができないから」と言っていたんだけど、ある時、「料理ができないって言ってる人は、できないんじゃなくて、やろうと思わないだけ」という意見に出会った。確かにその通りである、基本的に料理にはレシピが存在していて、手順通りに進めれば一定の味と見た目が保障されている。それなのにも関わらず、やる前から「できない」だなんておかしいではないか。これまでの自分の発言を猛省した。その時からわたしは「料理ができない」のではなく、「料理をしない」ことを決めた。結局のところ、取り組まないだけなんです。これは料理だけではなく、世に存在する様々な事柄に当てはまると思っている。

 

 同じことをしても、楽しく取り組める人もいれば、苦痛に感じる人もいる。料理の場合、わたしはどこまでも痛苦の中にいて、「料理はできなければならない」なんて押し寄せる強迫観念、もっともっと苦しくて痛い。だからもう、その分野は諦めてしまった。ご立派であろうとすることを手放した。すると心が解放されたような爽快感、随分と生きやすくなりました。苦手なことに関しては、苦手なままでよろしいのです。得意な人に手伝ってもらったり、お任せすればいいのです。一仕事の感謝を伝える形として、お金がその役割を担っている。そうすれば微分ながらも経済は回っていくし、なによりも軽やかな心で生きていける。所詮、人間は一人では生きていけない。だからもう、自分が苦手なことは手放して、大事なことだけに愛を注いで。わたしたちは、この世界に甘えて生きていけばいんですよ、きっと。