[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0300 月明かりの食卓

 

 長いこと一人暮らしを続けていて思うのだけれど、だれかと一緒にご飯を食べることって、実はものすごいことなんじゃないか。最近になって、その思いが一段と強くなった。

 

 同じ料理でも、一人で食べるのと、だれかと一緒に食べるのとでは、全く味わいが異なる。だからといって誰でもいい、という訳ではなくて、大切な人と、温かいご飯を食べたいなって思う瞬間がある。現在が寂しいからそのように思うわけではなく、ただ人間としての本能が疼いているような感覚。ヒトは、社会的な生き物だから。たった一人で生きていけるようにはつくられていないんだろう。

 

 物心が不安定だった小さな頃は、夜になるとご飯できたよと声がかかり、いただきますをして皆でテーブルを囲んでいた。当時の少年はテレビゲームをクリアすることしか考えておらず、黙々と早食いを繰り広げるばかりだった。今思えば、もう少しだけ、ゆっくりと、あの空間を味わっておけばよかった。なんて、謎の後悔ばかりが頭中に渦巻く。

 

 わたしは幼い頃から現在に至るまでとても味音痴で、基本的になにを食べても美味しいと感じる。それでも、手料理の美味しさというのは圧倒的に違っていて、ただ美味しいだけではなく、温かいのだ。それも、すべての悩みをほぐしてくれるほどの、偉大な温かさ。たまに、手料理をご馳走になる時があるのだけれど、その度に大きく感動してしまう。どうして、こんなにも温かいのか。どうして、ほんの少しだけ胸が痛むのか。幸せなのに、嬉しいはずなのに、息苦しくなる温かさは、明日という未来の中に、大きな影を落としている。

 

 ただいま、と言ったら晩御飯が完成していて。いってきます、と言ったら弁当を持たせてくれる。前世でどれだけの徳を積めばそんな日常がやってくるんだと思うのだけれど、実際にそんな日常を送られている方が世の中にはたくさんいる。食事というのは、生きていく為の必須項目で、それをだれかに作ってもらえたり、一緒に食べられたりすることって、本当に奇跡のようなことだ。そうでないから自分は不幸、となる訳ではなくて。自分もそうなりたいと執着している訳でもなくて。なんというか、それが日常の当たり前として作用していることに、わたしはいつだって驚きを隠すことが出来ない。

 

 ある日突然、だれもいなくなるかもしれない。そうなっては、料理を作ってもらうことも、一緒に食べることもできなくなる。自分で買ってきて、作って、ひとりで食べることになる。当たり前だけれど、冬は心身をよく冷やす。一人ポツンと佇む部屋の中、「美味しい」と発した一言はエアコンの動作音にかき消される。テレビから湧き出る映像や音声はどこまでも空虚で、”孤食”を身に染みて感じるから捨ててしまった。いっそのこと、一人残った自分自身も捨ててしまえばよかったのかもしれない。ゴミ処理場での出会い、似た者同士の人間で、また新たな食卓を築いていけば、それでよかったのかもしれない。でも、そんな勇気はどこにもなく、自分を捨てることもできないままだ。今日も一人、静かな部屋で、晩御飯をいただきます。未来の中にある、温かい食卓を思い浮かべながら。

 

 

日々、料理をされている方、本当にありがとうございます。

あなたのおかげで救われている人、きっといるはず。