[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0228 決まりの悪そうな顔をして

 

 なんとなく、疎外感を味わいたい日がある。

 

 そんな日が気まぐれに訪れる。きっとそういう時は日常に飽き飽きとしているんだろう。空間の中で完全に浮きまくっているあの感覚の愛しさ。完成されたコミュニティからの断絶、それでも場に留まり続けなければならない時の絶望、空気より軽い存在になったような錯覚と無力感。学生時代にはよく味わったものだけれど、あの時はよく頑張っていたよなぁって懐かしい気持ちになる。お酒が飲める年齢になってから、最後にそんな思いをしたのはいつだったっけ。思い出せないということは温かい空間ばかりに包まれてきたのかな。

 

 生温いなぁと思う。有難いことなのは百も承知で、この温かさが疎ましく感じる。安心と安全、優しさと温もり、笑顔と抱擁。私はずっとぬるま湯に浸かっていて、気付けば首から下の皮膚がふやけにふやけて全てはがれ落ちてしまった。空気に触れると痛い、だからずっとお湯に浸かっていることしか出来ないままで。

 

 そんな自分をぶっ壊してやりたい。恥ずかしい思いや想像し得ない過ちを犯したい。だからそういう時は一旦コミュニティから消えてみる。知らない場所に行って、知らない人とお話しをする。そして何も知らないままさよならをする。それは小さな旅行でもいいし、行ったことのない居酒屋に飛び込むでもよくて、もう足を運ぶことも無くなったクラブなんかに行ってみるのもいい。とにかくバキバキの疎外感を味わって、自分の無力さを認識すること。

 

 そういうことを何度か繰り返していると、誰も自分のことなんて見ていないことに気が付く。他人は他人を気にしていない。芸能界や政治関連のゴシップを日々インプットアウトプットしているような人間でさえも、身近にいる他人のことには関心が無い。結局のところ、みんな自分が一番可愛いんだ。それは僕自身も含めて。だから他人のことなんてどうでもいい、最早見ず知らずの他人ときたら存在していないのと変わりないのかもしれない。

 

 現実に身を置いて真理を味わった時、初めて”一人”の人間になれたように感じる。そこに存在する微かな疎外感でさえ愛おしい、私は一人でよかった。そのまま疎外されていたい時はジッとして温かい笑い声たちに耳をすませていればいい。それにもちょっぴり飽きてきた時には思い切って自分から声をかけてみる。誰もが愛されたいと願っている生き物だから、その想いを突いてあげるように言葉を投げかける。そうすると案外戸惑いを含んだ返投があったりするものです。そうしてキャッチボールを繰り返す内に、いつの間にか疎外感は姿を消している。その瞬間に初めて「寂しいな」と思います。わたしはその寂しさが好きで、何度も何度もこんなことを繰り返してしまう。疎外感を味わいたい瞬間、その疎外感の消失を望む瞬間、寂しさを垣間見たい瞬間、一人になりたいと願う瞬間、それぞれが異なる瞬間たちに身を動かされながら、これからも人生に翻弄され続けていくんだろうな。

 

 

今日はいつもの場所に帰ってきた。

 

久々に触れるとそれはとても温かく感じられて、

そこに生温さは存在しない。