[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0229 冷たい眼差し

 

 死んだ魚の目とはよく言ったものだけど、果たして生きた人間の目ってどういうものなんだろうか。

 

 赤子や小動物を眺める時や、愛する家族や恋人を見つめる時の瞳がそれに値するのかな。だとすれば、”それ以外”の時間は、愛しさが視界に在らぬ時間はずっと死んでいることになるんだろうか。

 

 そういうのはちょっぴり悲しいけれど、ずっと生き生きとしてなくてもいいと言われてるみたいで何だか安心する。わたし達は愛がある時に、その瞬間の中を生きていればいいんだ。辛い時は死んだ人間の目をしていればよくて、つまらなくて楽しくない時にはいっそ魚にでもなればいい。いつ終わるかわからないからこそ、脱力して人生の上を歩いて行きたい。

 

 幼き頃から相手の目を見てお話することが苦手だった。小学生の頃に『ジッと相手の目を見続ける行為は失礼です。特に日本人の場合は。』ということを習ったので、なるべく相手から視線を外すようにしていると、親族からボロクソにめっちゃ怒られたこと。ずっと目を合わせなきゃいけないのかと思い、対面にいた知らない人の目をジッと見ていたら「喧嘩売ってんの?殺すぞ」と怖いヤンキー兄ちゃんの咆哮を浴びたこと。母が目を合わせてくれなくなったこと。その何もかもが極端すぎてもうどうすればいいのかわからないまま現在まで生きてしまった。馬鹿だ、おバカさんだ。

 

 最近になってやっと適切な目の合わせ方がわかってきた気がする。それでも長年身に沁みついた悪癖は恐ろしく、油断すると全てのアイコンタクトを忘却してしまう。意識する、脳味噌に「目を合わせる」の六文字を刻印する。そうして初めて、相手と視線を交わすことが出来る。相手の目と自分の目を意識するようになって、今更ながらその重要性を痛感している。目を見ている時と見ていない時では、相手が話す内容量に変化が生じる。言わずもがな、目が合っている時の方がより深い話しがポロっと溢れ出たりする。通じ合っている感じがして、会話内容が耳から零れ落ちなくなる。会話することそのものが楽しくなる。

 

 わたしの目は決して大きい訳ではないけれど、この目であなたを見つめる時には”生きた人間の目”をしているのかな。生きている人間同士が目と目を合わせて会話をしている。それだけで充分すぎる程に心が満たされます。別れた後の帰り道には少しずつ瞳が死んでいって、またいつもの日常の中へ戻っていく。それでいいのだと思う、飽き飽きとした日常があるからこそ特別な非日常の輝きが増す。人はそうして、時々生きることを思い出せばいいのではないでしょうか。その為にはあなたが不可欠で、あなた自身が何よりも必要で、あなたのことを想っている時だけは、日常の中にほんの少しだけ生気が溢れている気がしていて。だからあなたに会いたくて、目を見て、生きていることを実感したくて、愛。