[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0214 愛情の丘

 

「相手の受け取る準備が出来ていないと、その優しさや愛情は単なるエゴになってしまう」

 

 先日、友人と話していた中で印象的だった一言。

 

 恋愛とか結婚って、愛って何なんだろうな。これまで幾度となく彼女と話し合ってきた中で、今回は相手側の大きな心境の変化を微細な表情や選別された言葉達から感じられた。聞かせてもらった限りでも彼女はたくさんの経験の上を歩いていた。他人が聞いただけでそう感じるのだから、当人の感覚的にはもっと深い所まで突き進んでいるのだろう。切り取った一部分の話しを聞いただけなのに、こちらまで疑似体験したような感覚になるから面白い。私は、少しばかりの羨ましさと、溢れるほどの微笑ましい気持ちで自分自身が満たされていく感覚に心をゆだねていた。

 

 お互いの意見を尊重できる関係性が好きだ。わたしにはわたしの意見があって、相手には相手の意見がある。双方の意見を差し出し合い、どちらをも否定することなく受け容れる。そして、時には感心を得る。「こうしたらいいんじゃない?」などのアドバイスは不要で、互いの主義主張を認め合う。結局、本質的に人間同士が完全に理解し合えることなんて不可能だ。それでも相手を受け容れながら歩みを合わせることは出来る。そうやって付かず離れず、歩幅や速度を合わせたり合わせてもらったりしながら、二人の最適な速度で未来へと歩いていくこと。それこそが愛なのではないでしょうか?。

 

 だとすれば、わたしは愛に満ち溢れている。

 

 ”当たり前のこと”が当たり前としての機能不全に陥っている現代社会で、心から話したいと思える人が少なくなってしまった。目を合わせず画面ばかりに視線を突き刺す感情の欠落、限定的な感謝や挨拶の消失、人の温もりが著しく沈殿している。僕たち現代人は冷たいものばかりに触れていて、そうして酷く心が冷えた結果、自分の中で孤独感が発生する。人間は生まれた時から死ぬ瞬間までずっとずっと孤独だ。それでも世界は美しい、温もりに触れている間は孤独を忘れることが出来るから、自分は一人ではないんだと錯覚することが出来るから。体温を感じる人がとても少ないからこそ、感じられる人達との関係性を大切にしていきたいと思えるの。これが自分の中での愛の結果であって、現状にして最上の到達点なのです。

 

 そこに性別の垣根は存在しなくて、わたしは愛したい人だけを愛しながら生命を削り死んでいきたい。大分躁状態が落ち着いたと思ったけれど、愛の欲求だけが消えないままでいた。きっと現在の自分にはこの感覚がとても大切で、同時に過去の自分自身が必要としていたことでもあった。愛されるより愛したい愛したい愛したい、それでもたまにはちょっぴり愛されたい。

 

 こうした愛の欲求も相手の中に溶け込まなければ、それは単なるエゴだ。行き場を無くし帰還した己のエゴが「拒絶された」と自分自身を傷付ける。「そういう訳ではないのだけれど」相手は戸惑いの表情で少しばかり自身を切り付ける。傷ついたことによってまた新たな傷が発生して、その傷がまた違う傷を呼び起こす。連鎖反応で小さな世界が崩壊する。そんなのはとても悲しいから、受容の不在で返却された愛情はこっそり胸の内に戻してあげるのがよい。「おかえり、よく頑張ったな」その一言を与えるだけでエゴが暴走することは無くなる。あなたは拒絶されたのではなく、単にタイミングが合わなかっただけよ。愛の受け容れ態勢が整うまで、そのエゴを温めておく。人生を歩いていると、時折身体を震わせ寒そうにしている人がいるから、そういう人に温かいエゴを配ればいいと思うの。相手に温もりを感じてもらえて初めて、私のエゴは殻を破り愛情の名を宿すのだと信じています。だから、それまではずっとずっと、自分自身を温めていたいと思っています。

 

 それでも、あなたにだけは幸せになってほしいと願うことは、愛情を夢見るエゴから生まれた想いなのでしょうか。その想いを出来る限り体現していくことで、愛情の向こう側に辿り着ける気がする。これは単なる気のせいなんかではなくて、そこにはとても安心した表情のわたしと、笑顔で手を振るあなたの姿が見えている。宙には空を埋め尽くすほどの花吹雪が舞っていて、あなたと私とその他大勢の温もりの、人生の彩りを感じられる。

 

 そうしてやっと、わたしも散ることが出来るのです。