ある朝、目覚めるといつもとは違う世界に存在していた。いつもと同じ時間、同じ部屋、同じ香り、同じ音楽、何もかもが昨日までと変わらないのに、唯一わたしだけが大きく変わっていた。世界が明るい、私の気持ちが焼きたての石焼き芋みたいにホクホクと湯気を立てている。頭も身体も心さえも、何もかもが弾むように軽い。どうしよう行動したくてたまらない。もうジッとなどしていられなくて、いつもより早めに身支度を済ませて外へ飛び出た。
「あぁ、世界は愛に満ちあふれている。」
誰一人として通らない駅までの道のりの最中、わたしは素直にそう思った。朝陽が差し込む、愛。鳩が規則正しく鳴いている、愛。コンクリートを蹴る足の感覚、愛。排気ガスが充満した清々しい空気、愛。
あれどうしたんだろう私はこれからどこへ行くのだろうどうしても誰かのことを愛したい世界に貢献したいみんな幸せになればいいのにたくさんの人でハグを繰り返せば抱える悩みも半減するのかなそうすれば世界に笑顔が増えるのかなその為にはどうすればいいのかな一体わたしに何ができるかな仕事なんてしてる場合じゃない自分だけの人生を送っている場合じゃない私はわたしの心と身体を使って愛を届けなければならない愛を全うしなければいけない世界中の温もりを一つ一つ丁寧に感じたい地球最高人生最高人間最高わたし最高だから愛したい愛したい愛したい愛したい愛したい
どうみてもおかしい、自分自身ではないみたいだ。そう理解していたけれど、溢れ出る愛情が止まろうとしない。人格が多幸感で埋め尽くされていた。生きていることが気持ち良かった、身体全体で人生を感じていた。
先日、妹と酒を飲みながら創作について話していた。妹は絵を描く人なんだけど、どうやら最近創作意欲が湧かないらしい。ふいに妹が漏らした「感情が落ち込んでる時の方が、自分の納得出来る絵が描けるんよね」という一言がとても印象的だった。「間違いない、めちゃくちゃ共感やわ」それ以上は何も言えなかった。その方式に当てはめれば、彼女は現在満たされた日常に身を浸していることになる。「それってとてもいいことじゃん」何気なく投げかけた一言が反射して自分に突き刺さったまま、酒の席は幕を降ろした。
「あれ、思うように言葉が出てこない」
躁状態の最中、止まらない自分自身を横目に痛感した。文体が形を成さないというか、適切な表現が出来ないというか、これまで培ってきたはずの自分らしさみたいなものがその姿を晦ませていた。書きたいのに、書けない。いやいやそんなことよりも世界を愛したい。自分の中にある優先順位がいとも簡単に入れ替わっていて、自分の中で違和感を覚えながらも暴走する浅はかな愛情を制止することは叶わなかった。
俺は明るい人間になんてなりたくない、愛情の使い方を間違えたくはない、もうやめてくれ自分自身を保てなくなる。そんな自分が嫌になって酒を呷る。アルコールを摂取している時は少しばかり気持ちが落ち込みを取り戻す。そして何とか言葉を捻り出すことができる。やっぱり、アルコールはずっとわたしの側にいてくれる。そのように錯覚させる力がある。
何もかもが偶然の産物で、わたし達もその例外ではない。偶々、男と女が身体を重ねただけだ。そこに意味はなく、同じくわたし達が存在する理由もない。
やっと、気持ちが落ち着いてきたように感じる。この数週間で私の中にある人間愛をすべて使い尽くしてしまったのではないか。世界への憎しみが緩やかに復活していて、少しばかりの安らぎが身を包む。現在は限りなく無気力で、未来に希望も無く、過去に対する後悔さえも見失っている状態。依然として、どうして生きているのかわからない状態。数日前の自分が言っていた、産まれたことにも生きることにも意味なんてないって。その上でどうして生き続けることを選ぶのか、そんなことばかりが頭の中を旋回するものだから、考えることにも疲れてしまって不器用ながらもダンスする。
思うに、わたしは自分のネガティブ性質を必要としている。精神病だってそうだ、現在の自分を保つためには”それが”必要なのだろう。不要になれば手放せばいいのに、それに固執して苦しんでいるのは紛れもない自分自身だ。何だか滑稽な一人遊びみたいだなと感じるけれど、実際そうなのだから何とも言えない。壊れてしまわない為にはそうするしかなかった、厭世的に生きるしか方法が無かった。ただ無邪気に笑っているだけの人生なんてクソだ、苦悩のない人生なんて紐で繋がれ宙に浮いたままの風船と同じだ。いつか消えるその時まで、わたしは苦しみ続けていたい。自罰的と揶揄されても、歪んだマゾヒズムだと嘲笑されても構わない。よりシンプルな形として、この苦しみを理解していきたい。
微笑を浮かべたまま、苦しむ鬱として生を終えたい。
了