[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0174 ベンゾジアゼピン

 

 最近、たくさん眠るようになりました。

 

 意識的に「寝よう!」と意気込んで始めた訳ではなくて、気が付いたらめっちゃ寝るようになっていた。22時頃には眠りについて、5時過ぎに目を覚ます。やっぱり睡眠って大事なんだなと痛感することが日常の中では多々見受けられて、これまでの愚かさを密かに嘆いている。まるで支柱を失った不安定な心が、ある程度は静けさを取り戻してきたような気がするし、些細なトラブルにも冷静さを保てるようになった気がする。この何もかもが”気がする”だけの錯覚なのかもしれないけれど、例えそうだとしても、わたしはその錯覚の中を生きていたいと思える。時として、本当の意味での真実など必要ないのかもしれない。

 

 当たり前のことだけど、それと引き換えに”夜”を失うことになる。もう日が変わるまで起きていられないし、長く楽しい深い夜を味わうことが難しくなった。そういえば長らく飲みにいっていないし、他の誰とも夜の時間を過ごしていない。本当にこれでいいのだろうか?かつては自分の中に存在していた”人間としての面白味”みたいなものは、現在では下水道の奥底へと流れ落ちてしまったような気がする。あぁ、また”気がする”だなんて言ってしまった。結局のところ、自分の中では確証を得ていることなど一つもなくて、これが世界の事実だと自分自身に言い聞かせながら、錯覚の上を一歩また一歩と歩いているだけに過ぎないのだろう。

 

 もう少しでクリスマスがやってきて、ショートケーキを嘔吐するまで食べ続けた後は年末年始が虚無の爆撃をプレゼントしてくれる。そんな在り来たりな毎年の恒例行事をただぼんやりと眺めながら、一人の部屋で首を括る方法をGoogle検索したりして。馬鹿みたいに流れゆく時の非情さや世の中の喧噪を頭の中で巻き起こる爆風で吹き飛ばしながら、自分自身の無力さを空に叫び消えてしまいたい。そんなことは叶いもしないから、叶える努力もしないから、痛みや苦しみを受け容れたフリをして愛想笑いを浮かべながら生きていくしかない。それさえも無益だということを理解しているからこそ、今はただ長く眠りたいと願っているのか。

 

 大勢の人に届けたいとか、あなたに届けたいとか、そんなことを考える余裕は持ち合わせていなくて、ただ自分自身に突き刺さる一文であればいいと思えてる。自分が欲しい言葉は、誰も言ってくれなかった言葉であって、だからこそ深い部分まで届けられるように自分自身の手で思い切り突き刺すしかなかった言葉達だ。わたしが書く文章って、所詮その程度のものだ。すべての死にたがり屋に捧げる、みたいな都合の良い(笑)キャッチコピーを掲げることもあるけれど、自分が知る人間の中で、一番の死にたがりは私以外の誰でも無かった。だから、自分自身のことを思いながら、ひたすらに自己愛を紡いできた。時には嫌悪や憎悪を剝き出しにしながら、鋭利な刃物として自分の上を流れる血液をただ眺めていた。あれ、わたしは未だに夢を見ているのだろうか。夢の続きに存在している私は明日の自分に手を振っていて、そんな愛想笑い達をわたしは見捨ててしまう。

 

 眠りの中で快活に駆け回る絶望も、目覚めた後の虚無感も、すべてのことを自分は愛していて、失った家族の温もりを思い出しながら、今日もアルコールを頭に流し込んでいる。どこまでが夢であって、どこからが現実なのだろう。何もかもを失った時からが夢なのであれば、どれほどまでに安堵しただろう。後の自分は目覚めるだけなのに、そんな単純なことをいつまでも実行できないままでいて、そんな自分に嫌気が差して、今日も夜を犠牲に瞼を閉じる。幾度となく眠りに眠りを重ねた果てに、私はあと何度目覚めれば、元の場所に帰って来られるのでしょうか?