[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.083 一体何処へ、転がり落ちる生

 

 少し気を抜くと、全く何も書いていない状態になってしまう。

 

 

「あなたはどうしたいの?」

 鳴り響く自問自答から目を逸らすことさえ恐怖となって、人様が生み出した作品に逃げ込み自分までもが芸術的になったように甚だしい錯覚を脳に刻んでいるのです。

 

「馬鹿じゃねぇの」

 わかってる、そんなことはわかっているんです。わたしは何も生み出さない、ただ時間だけが過ぎ去るようにと、ただこの灯火が早く消えるようにと、立ち尽くし願い続けることしか出来ないのです。

 

「それならば早く死ね」

 ”生きることに理由など必要ない、それこそが最大の生きる理由となり得る”ということを最近学びました。少し遅すぎたでしょうか?だからといって生を謳歌したいとは思わないけれども、死に急ぐこともないのではないか、現在のわたしはそのように考えています。

 

「独りぼっちのお前に何ができる」

 えぇ、何も出来ないかもしれません。しょぼくれた自分ひとりの力では世界を変えることや他人に影響を与えることは難しいかもしれない。しかし、最果てで立ち尽くす自分自身を変えることは出来ます。蹲っている自分自身を変えることが出来ます。いつまでも泣いている自分自身にハンカチを差し出すことが、私には出来ます。

 

「これからもずっと変わらないくせに」

 ずっとずっと、変わらない選択を歩んできました。強情な恒常性を憎らしく思います。泣いているだけでは何も変わらない、救いの手なんてありはしない。その手を差し出すのは自分自身であり、それこそが紛れもない私なのです。もう泣かないで、笑うこともしなくてもいい。持ち前の無表情を決め込んでしまって、それからゆっくりと変わる選択へ歩みを進めていけばいい。

 

「もう死んでくれ、放っておいてくれ」

 わたしが敬愛する作家の金原ひとみさんは、著書の中で”小説を書くということは、命を削っている感覚がある”と仰っています。作品の中に自分の感情だったり生命をぶち込んでいるから、読んだときには心がゴッソリと抉られるような衝撃を受ける。それ程までに偉大な方のお言葉を拝借することは恐れ多いですが、自分にも似たような感覚があります。文章を書いている時は、とても心苦しさを感じています。”命を削る”というよりは、心臓を雑巾に見立てて何度も強く絞られるような、そんな苦しさがあります。その苦しみによって何よりも自分を実感できるというか、生きているというか確実に死に向かっているというか、だからこそずっとずっと書き続けたいと思える。ただ楽しいだけで書いた文章なんて、自分にとっては何の意味も持たない。痛みや苦しみは、最大級の原動力となる。それで自分が壊れてしまったとしても、それはそれで構わない。いつまで続くかもわからない、そんな長い時間を過ごすぐらいなら、私はわたしを破壊してやろうと思います。

 

「結局のところ、お前はわたしを救えるのか?」

 何度も言わせないで下さい、私はあなたを破壊します。ただ勘違いしないでほしいのは、その凝り固まった思考の癖を正すことが難しいからこそ、一度壊してしまうだけです。何もあなたの人格までをも破壊する気はありませんし、核となる部分は必ずそこに残ります。それでも、あなたはあなたとして素養の大半を失うかもしれません。けれど、それでいいのです。それが何よりもいいのです。核さえ残っていれば、再形成は可能ですから。

 

 破壊には痛みが伴います。継続的な痛みには苦しみが伴います。それは仕方がないことなのです。私はあなた、あなたは紛れもない私自身。共に苦しみ、壊れていきましょう。

 

 時間の経過だけを祈りながら意味もなく酒を飲み続けることは止めにしよう。アルコールに縋り付く関係性は終わりにしよう。悲しい時もある、虚しさもきっと訪れる。それでもあなたは、その苦しさを身に刻みつけることが出来るから。そうやって、弱さが強さと成る。それでいい、きっとそれでいいのです。