[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.074 偶発的な、幸不幸

 

「幸せが何かも解らない僕等は

 病んで病んで病んで 狂っている」

 

銃声 / キズ

 

 

 辛い、苦しい、悲しい、寂しい、侘しい、虚しい。そんな感情たちに支配されて酷く落胆することを”病む”と表現する。どうして、わたし達は心を病んでしまうんだろうか。そこに理由の有無など関係なくて、病む時には病んでしまうし、それは必然であり仕方のないことだ。病んでいる状態がよろしくないと言いたい訳ではない、けれども、心が沈んだ状態でいることは酷く息苦しさを感じるし、何よりも”生きづらさ”みたいなものに生活を支配されて、自分の人生が大きく蝕まれることになる場合もある。

 

 出来ることなら、気楽に生きたいと思う。それなのに、生きているだけであらゆる類の重罰が日々降りかかってくるし、こんなことなら生きることを止めてしまいたいとも思う。”死にたい”というよりも”生きていたくない”、みたいな感じが的確だろうか。苦しいよな、悲しいよな、辛いよな。でも、自身に罰を課しているのは、他の誰でもない自分なのではないかと思うんだ。喜びと悲しみは表裏一体、影があるならどこかに光が射しているはず。そんな影の部分ばかりを掻い摘んで"これは悲劇だ"と声高に嘆いているだけなんじゃないだろうか。"光を探す努力をしろ"ということではない、それよりも"影から目を逸らす努力"が大事なんじゃないかと思うようになった。光を直視するにはあまりにも眩し過ぎるし、だからといって常に影ばかりに視点を置いてしまうとそれはそれで視力が悪くなってしまう。無理をして光を見なくていいし、影と向き合う必要もない。選択的脱落、虚空をボーッと眺めているぐらいが、何事にも柔軟に対応出来るのではないかと思う。

 

 時として、病みに救われる時もある。負の感情は物凄いエネルギーを有している為、自分の中で上手く使う=昇華することが出来れば、大きな成果を上げられる場合もある。だからこそ、憎悪や怨恨、妬み嫉み、わたし達が抱く様々な感情を頭ごなしに否定することはしたくない。使い方次第では最強の武器となる。しかし、一歩間違えば自身をも破壊してしまう強い力がある。自己破壊、自傷行為、自罰傾向。気付いた時には自分自身が崩壊していたりする。そして、一度壊れてしまった心を再構築することは、何よりも難しいことだから困ったものだ。

 

 わたし自身、弱い類の人間だと思う。ほんの些細な出来事で物凄く落ち込んでしまうし、時に不安のあまり発狂してしまうことだってある。不安を生み出すことが得意で、過去現在未来に様々な不安を量産し続けている。自分のことを”弱い人間”と断言してしまうなんて卑怯極まりないことだなと思う。それでも、わたしはこの”弱さ”が好きだ。弱さがあったからこそ現在のわたしがいて、わたしが私であり続けるには、これからも自身の核となる弱さが必要不可欠だ。弱いからこそ、他人に優しくなれる。弱いからこそ、表現を続けたいと思える。弱いからこそ、誰かに触れたくなる。弱さは、視点を変えれば”強さ”になる。最大の弱点が、賞賛された狂気となる。そんな世の中だから、弱い自分を受け入れてあげて下さい。強くなくたっていい、ありのままの弱さと向き合うことを続けて、そして受け入れてあげて下さい。自分から弱点を切り離してしまうことは、ほんの少しだけ個性が没落してしまう気がする。

 

 そこに在る弱さこそが、君の美しさなのかもしれないのだから。