ごきげんよう、窓に幾つもの雨粒が滴っている。わたしは雨が好きです。休日に降る雨が大好きです。何もしない一日に「雨だからね」と理由付けすることが出来る。何か行動を起こせた日には「雨なのによく頑張った」と自分を褒めてあげることが出来る。そんな今日は”何もしない一日”でした。昼間からアルコールを飲みながら、本を読んだりYOUTUBEを眺めたりしていました。友人と会おうかと思ったんだけど、連絡先の少なさに自分自身で驚いた。食事に誘える人間がほとんどいないことに今日気が付きました。まぁ仕方がないか、雨だもの。雨だからといって突然友人が減る訳がない事は理解している。それでも何もかも、全部、雨のせいだ。そう思うと少しだけ心が軽くなる錯覚を手に入れることができる。その錯覚を胸に抱いて、少しばかりの不貞寝を貪る。そんな一日があってもいいじゃない、ねぇ?。
何故か雨の日には文章を書きたくなる。感情を言葉として具現化したくなるんですね。雨からはとても郷愁を感じる。空から降る水の群れには人間の心を揺さぶる力がある。それは決して前向きではない、どちらかといえば俯きがちな姿を想起させる。けれども雨はその俯き加減を決して否定したりしない、寧ろそれを肯定してくれるような優しさを持ち合わせている。お気に入りの傘をさしても容赦なくわたしを濡らす雨、それはまるで他者との触れ合いを代行してくれているようで、途端に虚しさが胸中を覆いつくす。夏に降る雨は少しばかり温かい、その温もりと人肌の温度を比べようと試みたのだけれど、人肌がどういったものだったのかを忘れてしまった。幼子が母に抱かれている情景、その裏側では止むことのない雨が降っている。そんな何とも言えないノスタルジーがわたしは好きです。胸が締め付けられるそんな感覚に心地よさを見出しています。私は精神的深部にマゾヒズムが根付いているのかもしれない。もしくはそのように変換しなければ、心が重圧に耐えられなかったのかもしれない。華麗なる自己防衛本能、人間って上手く作られているものですね。
わたしは晴れよりも雨の日が、喜劇よりも悲劇が好きです。そして、晴れの日や喜劇が存在するからこそ、わたしは好きなものを見つけることができ、好きなものを好きだと叫ぶことが出来る。いつからか、そのことを念頭に置くようになりました。すべての物事には裏がある。裏があるからこそ表が際立ちます。光が差す場所には必ず影が存在している。ならば、わたしはその裏を、影を抱えながら生きたい。笑顔よりも泣き顔に魅力を感じます。この雨の中では涙を流すことすら、許されてしまうのですから。
了