[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.025 今日はもう眠りにつきたい

f:id:inukaiii:20210816200633j:plain

 

「この世の不条理はすべて当人の実力不足」

 

東京喰種 / 石田スイ

 

 

 無責任な”生きろ”という言葉が当事者を苦しめていることにまだ気がつきませんか?よほど頑強なメンタルの持ち主でない限り、人は過ぎゆく日常のなかである程度心に傷を負っていくものです。傷の治りが早い者もいれば、遅い者もいます。傷の深さによっては完治しない者もいるでしょう。どうしようもなくなった時に、苦しみを吐露できる人もいれば、その苦しみを大切に抱えながら耐え忍ぶ人もいます。自分自身の傷や悲鳴を素知らぬフリして生活を続ける人もいます。三者三様、十人十色の感性がそこにはあって、いわばオリジナルの苦しみを統計的枠組みに当てはめ諭すように語りかけたり助言したりする。下らないなぁと思うんです、誰も寄り添わない誰も寄り添えない結局は自分自身で問題に取り組むしかない、その気力が無ければ逃げるか、もしくは傷を増やし続けるしかないのです。それでも堪え続ける、それが自分と向き合うということだと、私は思います。

 

 時には他者に甘えることも大事だと思います。心が砕けそうな時には、親しい人に話を聴いてもらいたくなる。そう思っていなくても、ふとした弾みで感情が漏れ出てしまうこともあるでしょう。甘えたいと思った時には、とびきり甘えればいいと思います。そうしたいと思った自分の感情を大事にしてあげることが、何よりも大切ですよね(双方の関係性がある程度築き上げられている必要がありますが)。けれども、そこで相手に期待してしまうと、理想とは違った言葉が返ってきた時にはひどく落胆してしまうことになる。その落胆は時に相手への、世界への怨恨へと姿を変えてしまうこともある。そんなことでは本末転倒ですね。救いを求めてもいいけれど、期待してはいけない。それは相手の為であり、何よりも自分自身の為でもあります。期待するから、絶望が生まれる、過度の期待は相手にとって重荷になります。それでも期待することをやめられないという人は、それはそれで人間らしくて良いなと思いますけど、傍から見ていて甚だ苦しそうに感じます。

 

 死んだ方がいい人間などいませんが、同様に生きていなければならない人間もいないのではないでしょうか?人間には代わりがききます。壊れてしまえば新たな代替が補充されます。必ずしもその人で”なければならない”なんてことはありません。それならば、私たちは何故生きるのでしょう(生きることに意味や理由など必要がないこと、そんなことは重々に承知しています)。「人生は死ぬまでの暇つぶし」という思想が好きです。要するに好きなことや興味があることを続けていけばいい、寧ろそうするしかないのだと思います。美味しい食事に感動したり、好きな小説を味わったり、映画の世界観に浸ったり、時には酒に溺れたり、たくさん失敗して、同じ分だけ笑い飛ばすぐらいが丁度よい。しかし、そこに他者が存在していなければ、それは暇つぶしにはならないでしょう。結局人間は一人では生きていけないのです。それが家族でなくてもいい、恋人でなくてもいいんです。自分が好きと思える人が側にいてくれれば、それだけでその人生は豊かといえる。お金のかからない感性のぶつかり合い、それが会話です。波長があえば時間なんてあっという間に過ぎてしまう、そうやってあっけなく人生が終わってしまえばいいのに、そんな無駄なことを考えていた今日この頃でした。これもまた暇つぶしの一つです。

 

 本当に耐えられなくて、自死を真剣に考えている人に言いたいことは、「どうせ死んでしまうなら、その前に一緒にお酒でも飲みませんか?話を聞かせてもらえませんか?」という事です。投げかけられた希死念慮に対して、わたしは「死ねばいい」とも「生きろ」とも言いません。各々が好きにすればいいと思います。自殺を止めるつもりもありませんし、もちろん自殺幇助するつもりもありません。ただそんなあなたと話しがしたい。そして、そういった話に耳を傾けられる人間で在りたい限りです。

 

 最悪の場合は死んでしまっても構わない。そのように考えると肩の力が抜けて生きやすくなります。10秒あれば人は命を絶つことが出来る。その事実を知ってしまえば、現在悩んでいることが、とてもちっぽけなことのように思えてくる。笑っちゃいますよね。